六稜会報Online No.27(1994.5.20)


    119回総会卓話
    校歌からみた大阪の町

    脇田 修(62期)
    大阪大学名誉教授


       今日はどういう話をさせていただこうかと思ったのですが、大坂町人の生活感覚とか意識という話はあちこちでしておりますので、少し変えまして校歌のことから話をさせていただきたいと思っております。

       北野の校歌はご承知のように、学校が難波御堂から堂島、北野そして十三の地に移ったということが出て参ります。難波御堂というのはご承知かと思うのですが、東本願寺系のお寺であります。もともとは文禄4年、秀吉の時代に、東本願寺を開きました教如上人が大谷本願寺を建立し、慶長3年あの土地に移築された。その後、大谷本願寺は京都に移りましたので、そのまま大阪の南御堂さんとして残って来たといういきさつがあります。

       大阪の土地が開けましたのは、本願寺が、まだ分裂していないとき上町台地の現在の大阪城のところに、石山本願寺ができましてだいたい寺内で10丁ぐらいの(と言われておりますが)町を造りました。

       そのときに、本願寺が建物を建てるというので、掘りましたら、石がいろいろ出て来た、それで石山だという説があるんですが、それはおそらく難波宮跡の石ではないかという推測をしております。あの大阪城の南側のところに、大極殿跡が非常にきれいに出ておりますが、そういう地域でありました。本願寺と大阪の土地というのは非常に関係が深い訳でありますが、それが北野中学の最初の場所になります。


       それから堂島に移りました。堂島は、今は非常に繁華な所でありますが、堂島の起こり、なぜこういう名前が付いたかというのは、案外分かっていなくて、いろいろ説がありますが天王寺のお堂を造る時に材木をおいた、薬師堂があった、あるいは鼓の胴の格好をしているからドウジマだとか、いろんなことを申す訳であります。

       こういうことで地名の由来は分からないんですが、堂島の地名が早く出て来ますのは、寛正2年(1462)の崇禅寺寺領目録です。阪急京都線の、十三から南方、次が崇禅寺という駅でありますが、あのお寺が、室町時代には大阪の北の部分、堂島も含めまして曽根崎・福島・十三のあたりに多くの領地をもっておりました。その崇禅寺の寺領目録の中に堂島は出て参ります。ですから、室町時代から堂島はあります。

       ついでに申しますが、わたしは曽根崎小学校なんでありますが、曽根崎の土地も崇禅寺寺領目録の中に出て来まして、「埋田之内、角田」という肩書のついた田地が出て参ります。角田町というのは現在の阪急のある所であります。梅田というのは今は植物の「梅」を使っている訳ですが、もともとは「埋め田」だったが、あんまりよくないから、「梅田」に変えたんだという伝承があるんですが、この寺領目録の中の記述は、「埋田」と書いてあります。「埋田之内角田」と書いてありますから、恐らく梅田が一番最初に出てくる文献であろうと思っています。(中略)


       もっともここが開け始めますのは、元禄年間に堂島新地が認められまして、開発をやる訳ですね、大阪の北、曽根崎新地とか安治川口などもこのころに開発を致します。堂島新地の場合は、徳川幕府がその繁栄策として、幾つかの措置をとるわけです。

       例えば新地に対して、当分のあいだ、家役を免除するとか恩恵を与えまして、うまく新地が繁栄するようにするんですが、堂島新地の場合はその中で、お茶屋を作ることを認めたわけですね。もちろん江戸時代には大阪で遊郭は新町しか認めておりません。江戸では吉原だけ、それ以外のところは正式の遊郭ではないんですね。それで、新地には、茶立て女とか茶汲み女とかいう形で遊女を認めましたが、それが125株ありましたから、新しい遊里として出てきたわけです。

       近松は「新色里」という表現をしておりますが、曽根崎の露天神で心中をしました有名な『曽根崎心中』の「お初」は、堂島新地の「天満屋」の抱え遊女でありました。それから、風呂屋とかを認めたり、あるいは芝居も2軒ほど認めているんですが、繁栄策を講じました。その後は、曽根崎新地と堂島新地はほぼ一緒になった形で繁栄をしていくということになります。


       そのあと、北野中学は、北野に移ったわけですね。現在の済生会病院が建っているところです。嘉門長三という方が私財を投じてあの病院を作られました。どちらかというと貧しい人の医務施設として発展させるということで、あの病院ができたわけです。その前に、この北野中学があったようであります。だいたい3000坪ぐらいの土地です。ですが、あの土地は余りよくなくて、どちらかというと湿地帯であるわけですね。そういうところを開いて、北野中学ができたということであります。

       なぜ十三というか、いろいろ説があって、宮本又次先生も書いておられるんですが、今のところ、西成郡の古代条里制の13番目で十三だと、十三条だと。近くに十八条もあるのでおそらくそこから来たんだろうということであります。十三の渡しはありましたが、十三村というのはありません。阪急の駅ができたりして、この地域は十三ということになりました。この場所は、昔の成小路村だと思います。こういう形で、北野中学も変遷を経て、現在に至っているわけです。


       校歌の悪口を言うようなんですが、歴史的に厳密に申しますと気になることが二つあります。ひとつは「淀川の深き流れよ」というのがあるんですが、あれは新淀川でありまして、明治30年代にこの淀川は開かれたんであります。もともとは中津川といいまして淀川の本流から分かれが出ておりました。本流はご承知のとおり、今の中之島を通るわけ、その当時は水が非常に綺麗だったようです。

       余談でありますが、大坂の水は上町台地の辺りはまだいい水がとれるんですね、天満も東の部分は天満台地ですから、まだ水がよくて、お酒も造っておりました。しかし西の部分は海の水が混ざるもんですから、非常に悪くて、淀川の水を汲んで売っておりました。水道がつく明治30年代まで、水屋さんが水船で堀を通って、桶に入れた水を売って回った。500人ぐらい水屋さんがあったようであります。

       さて、その水は淀川の水を汲んだのであります。特に桜の宮で汲んだ水は非常にいい水で、お茶をたてるのに良い水だという話になっております。今だったらおなかを壊すんじゃないかと思うのですが。淀川が大阪の市中を流れていますと、洪水とかいろいろの問題があるというので、新淀川をまっすぐ流しました。私も淀川の堤の上を断郊競走で走ったんですが、この川は明治以後の改修によってできた川であります。


       もうひとつ、これもいやなことになるかも知れませんが、大阪城です。「天才の高き形見よ」ということになっておりまして、当然天才は豊臣秀吉だということになると思うんですが、残念ながら現大阪城は徳川期のものです。

       私は、信長、秀吉の研究もやっているんですが、秀吉というのはすごい天才だと思います。経済的なセンスというのは抜群で、あれだけの人が近世の初頭に出てきたというのは、驚きです。中公新書に『秀吉の経済感覚』というのを書いたんですが、しかし、経済的な感覚が優れ過ぎていて、歯止めが効かないというか、抑制力がなかったように思いますね。ですから小瀬甫庵『太閤記』の冒頭に秀吉は「算勘にしわき男」とあるんですね。要するに金勘定、経済的に非常に厳しい男ということになっています。

       しかし、すごい能力をもっていまして、その能力をもう少し広く使ってくれればよかったんではないかと思うのですが、この秀吉が大阪城を作った。今も残っていると皆さん思われるかもしれないんですが、これは残念ながら、戦後の研究で、今私たちが目にしているものは、すべて徳川初期、大坂の陣が終わってからのものであります。

       これもまた、ものすごいことをやったものだと思うのですが、徳川氏も厳しいというかえげつないといいますか、豊臣家の印象を無くすために焼け残ったお城の建物をつぶして、盛り土をしてですね、そのうえに新しい城を造ったんです。現在発掘調査が進んでおりまして、掘りますと出て来ます。それがわかったのは、戦後になってからで、大阪城天守閣の前を掘ってみましたら、7、8メートル下にまた石垣が出て来たんです。調べてみますと、これが本当の豊臣大阪城であるということになりました。

       豊臣時代の大阪城もすごいんですが、徳川さんはそれに勝るような大きな城を作りました。今わたしたちが見ております城は徳川時代の大阪城なんですが、そういう意味では「天才」は、秀吉ではなくて徳川さんということになるんです。ちょっと残念なんですが、もう家康は死んでおりまして、二代将軍の時代であります。

       これはいくらぐらいお金がかかったかという計算を致しまして、おそらく年間40万石、そして10年間400万石以上の費用がかかっただろうという推測をしています。当時日本の石高800万石として10年間に、総石高の半分を使ったということであります。5%を年間使っている。ですから、それをやらされた大名は悲惨でありまして、随分みんな困ったんですが、そのことによって、実は大阪の復興というものが早められたと思っています。

       大坂の陣で豊臣氏が滅亡しまして、大坂の町は丸焼けになっている訳ですから、そこにもう一度お城を作ると、どういう経済効果があるかというのは、ここにおられる経済界の方は皆さんすぐにお解りだと思うんですが、おそらく泉南空港どころの騒ぎじゃない、人口的に申しましても、当時大阪の人口は10万以上は増えていたというふうな感じがしています。そういうことで、皆さん、校歌の裏はご承知おきいただいた方がよろしいかと思います。(中略)


       ご承知のように大阪は天下の台所と言われまして、商業の中心でありますが、その地理的条件はいいわけですね。瀬戸内海、淀川と大和川、あの当時の大和川は大阪へ入って来ておりまして、宝永年問に堺に流すようになりましたが、水運の便がいい。

       もう少し申しますと、江戸も江戸湾に面して水運の便がいいのですが、しかし違う点は、大阪のヒンターランドが経済的発展をした地域であったということですね。それは関東とは比べものにならない。江戸を開いた当時では関東の経済状態は非常に悪いわけです。だから、あそこに人工的に江戸という政治都市ができた。それに対して、大阪周辺というのは農村部分も含めてバランスよくできた町である、というのが特色であります。

       もう一つの特色は、商業、商業とみんなおっしゃるんですが、大阪は産業都市であると思っています。(中略)

       考えてみますと、輸出の銅と輸入の薬が両方とも大阪にありまして、そういう意味で大阪は国際的な貿易都市であったというふうに考えていいだろうと思います。こちらに御子孫の緒方正美先生がおられますが、緒方洪庵先生の適塾が残っておりまして、大阪大学が所有しているという形で、わたしなんかも委員として保存・顕彰活動をずっとやらせていただいております。ご覧になってない方は、ぜひ適塾をのぞいていただきたいんですが、洪庵先生が大阪で勉強なさったということも勿論あるんですが、大阪であれだけの蘭学塾ができて、福沢諭吉をはじめ優れた人材を出せたというのは、大阪の土地柄と関係があると思っています。

       もっとも大阪の町は都市全体というよりも町内の関係が割合強いですね。適塾の話をしましたら、洪庵先生が適塾をお買いになったときの一件書類が残っていまして、どういう形で町内へ加入されるかということまで書いてあります。町内に入るのに洪庵先生は武士身分でありますから、町人でないとあの家は買えないので、町人の名義人を作られまして買われた。町年寄とか関係者にちゃんとお金を払われて、近所にきちんとお饅頭まで配っておられますね。(中略)


       大阪はもう少し風格をもたないといけないと思っております。大阪の町人は経済合理主義とか非政治性とか申しましたが、かっての人達はそれなりの風格をもって暮らしていたと思います。このことを最後に申し上げて、終わらせていただきたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました。(文責:編集部 オニ)


    原典●『六稜會報』No.27 pp.26-27