【記念講演】気楽に過ごせた北野
軟弱非国民少年の典型
京都大学名誉教授
森 毅(58期)
戦後、北野に関して受けたカルチャーショックは、十三の駅を降りたとき、手も触れたこともなければ、見ることすら恥ずかしかった女学生が、北野のマークを付けていたことだった。それは大変なショックでした。
北野の良いところは、ボクみたいな軟弱な人間をも自由に包み込んでくれたことで、おかげで結構気楽に過ごせたように思う。北野に入学したのは昭和15年、紀元2600年で入学試験も体操と口頭試験だけだった。軟弱な人間だけに「こりゃあかん」と思った。が、入学できたのは神風が吹いたおカゲです。といっても風邪を引いただけです。体操の試験で、寝ていた休養室から呼び出され、ふにゃふにゃの軟弱ぶりをみせたところ、試験官があれは風邪のせいだと錯覚して通してくれた。
また口頭試験のため参考書などで勉強したが、ちょうど紀元2600年とあって、「今年はどういう年か」と聞かれた。「2600年で、めでたい年だ」といったところ、試験官は「それなら2601年、2602年はもっとめでたくなる」といったので、子供心に試験官は退屈しているなと気が付き「毎年めでたい、めでたいといっていたら人間もめでたいと思われるし、ちょうど区切りでめでたい」と答えたら、大笑いされたが合格した。
北野時代を振り返ると、学校の成績は真ん中ぐらいだったが受験の成績は良かった。そもそも学校の成績と受験の成績の両方を良くしようというのは厚かましいことだ。テストには (1)過去を調べる (2)未来の予測 の二つの性格があって、教師は教えたことがどう伝わっているかを調べたくなる。それが、過去に何を学んだかをテストしそれを評価するのが学校の成績だ。それだけに、成績は教わった範囲をしっかり勉強すれば良くなるわけで、未来を予測する受験の成績は、そういう意味で範囲がないわけ、ボクはいつも範囲なしで勉強していたので、受験はよかったが普段の成績はパッとしなかった。
そしてよく学校をサボッタ。初めてのサボリは2年生の時、新聞で新しい粒子を発見した湯川秀樹氏の講演があると知って聞きに行った。が、何のことやらさっぱり分からず、ほとんど居眠りしていただけだった。
こんなことからサボリだしたが、親父はそれを大目にみてくれて2つの条件を出した。一つは落第するほどサボルな、もう一つは、サボッタからには納得できる一日をすごせ、というものだった。これは十三、四の子供にはかなりのプレッシャーだった。学校サボッて家で勉強したりして、何してるこっちゃいうこともあった。
とはいえ、サボリ方はだんだん上手になってコツも覚えた。一時、ビートたけしの「皆で渡れば怖くない」がはやったが、これは駄目で「一人で渡れば危なくない」というのがそのコツだ。サボルといういわば少年なりの格好よさは、ヒロイズムを刺激するが、そのヒロイズムが危険で、単にしんどいからサボルに徹するのがよろしい。
例えば行軍とか勤労奉仕などで、いつの間にかひとりでスッーと消えるのに限る。目立たないし、だれもがうまいことしよったなぁと思うぐらいで、これは結構おもしろかった。120年の式典でサボル話はちょっと場違いに思うが、それほど北野が良かったということに尽きるので、こんな話をしてるわけです。そんなふうにフニャフニャした軟弱非国民少年だったんですけど、クラスには愛国少年もいる。非国民をしているのに飽きると、たまには愛国少年のグループに行ったりする、そしてまた戻る、そんなことがごく自然にできた。そこで思うのは、よい仲間とは、いつでも抜けられて、いつでも戻ってこられる、そういう仲間だということです。中学生の悩みの相談なんかしていると、今の子供たちは一色になるのを求めているようだ。そういうのを「仲間」と思っている。いろいろな人がいるのが一番いいんですけどね。
今、就職難とかいって騒いでいる。卒業イコール就職というのは昔はそんな風には決まってなかった。今でもアメリカの大学生で卒業して就職が決まっているのはだいたい半分ぐらいだそうですね。ちょっとアジア回ってくるとか、何か他のことしてから進路を決める。京大あたりにもそんなのがよく来ています。卒業してすぐに会社などの仕事に就くという体制ができたのは戦争のせいだと思う。戦争中はとてもぶらぶらしておられなかった。ここらでちょっと考え方を変えてもいいのではないでしょうか。
ボクたちの時代の国民学校令は戦時立法で、学校が窮屈だった。ボクは北野から三高と日本で一番リベラルなところに身を置いていたので、自由に物が言えた。しかし、大阪の町でも「兵隊に行く」という人の声を聞いた。「お国のために兵隊にいくというのが気に食わない」という人もいた。「学校にある松の木のため、妹を守るため」とかいう人もいた。「それなら国のためというのも五十歩百歩だ」と自分の意見を言って、先輩に軟弱と説教された。
当時、一兵卒として戦いますという言葉がはやり、戦う一兵卒が日常用語になっていた。時代はぎりぎりの状況だったのだろう。戦後、酒を飲むときみんなの手拍子がナョンチョンとマーチのリズムになっているのが気掛かりだ。ひょっとしたら戦争文化ではないかという気がしている。
優秀な高校生を早目に大学で教育しようという話がある。僕は京大にいる時、これに反対した。早く大学に入れて駄目にしてしまうと。天才を育てるというが、天才は育てるものではなく、勝手に育つ。それに、世の中の変動期に天才は現われる。江崎玲於奈は僕の少し上、広中平祐は少し後の人だが、どちらも世の中が大変な時期だった。そういう時は、人と違う道を行っても誰も何も言わない。一列行進していて、ふつうやったらついていかれない者が、ちょっと別の道を行ったために、みんなより早く行ける。しかし、時には回り道せねばならないこともある。そういう賭けはあるけれど、その中で天才は育っていく。
今という変動期にこそ、若者には、成否を賭けて、人と違う道を歩いてほしい。
※講演の全文は紙面上、掲載できませんので
森さんの北野時代を中心に要旨としてまとめました。
(文責:編集委員会)