六稜会報Online No.26(1993.7.20)


    【特集】六稜クラブ活動小史
    水泳部

    プールは60周年の記念事業
    「六稜水泳部」が正式名称



       国民皆泳の政策がおし進められていた明治期に、早くも「水泳科創設」の記事が、資料に散見する。北野110年史によると、「明治17年7月、水泳科創設、水泳授業はじまる」と、さらに大正3年には、水泳教師団が発足、堺大浜で生徒の水泳の稽古が始まっている。そして14年には水泳練習場が甲子園浜に移され、昭和13年まで続いた。

      「北野」ではなく「六稜」
       自前の六稜羽織で、今も応援席の最前列に立つ岡田喜雄氏(40期)は「北野の水泳は、ゆうに百年を超えている」と解説する。
       OB会の「六稜水友会」会長中井正明氏(64期)によれば、会報の『稜水』6号に昭和11年に卒業した先輩の記述として「競泳部にスカウトされた」とある。したがって昭和6、7年ごろに「競泳部」として発足したのだろう、と。いつの時期に呼称が変わったかも定かではないがこの部は「北野水泳部」と名乗ったことがない、いつも「六稜水泳部(RSC)」で対外試合などに出場して活動を続けていたというのも、他の運動部と異なるところだったようだ。

      名目は防火用貯水池兼用
       さて、多くの卒業生が親しんだ通用門わきの「50メートルプール」は、昭和18年、生徒保護者会、いまでいうPTAが中心となって「創立60周年の記念事業」として造られたものだ。時局柄、防火用貯水池兼用ということで許可されたものだ。それだけに土掘り作業などは、ほとんどが生徒の勤労奉仕だった。しかも必要な鉄筋も十分揃わず、45年の大修理の際、鉄筋1に対して竹筋2の配合で造られていたことが、判明している。

      プール完成で黄金時代
       プール完成の年に始った校内水泳大会が恒例になるのだが、このプールから戦後すぐに国体の大阪代表が育ち「六稜水泳部」の黄金時代を築くのだ。そのトップを切ったのが62期の林宏之氏、63期の上山敏生氏で林氏は短距離、上山氏は背泳で、いずれも大阪大会で優勝、国体出場を果たす。続いて中井氏が800メートル、1500メートルの自由形で大阪のナンバーワンとなって国体に出た。また、女子も26年に吉田淑子さん(66期、現八代)が平泳ぎの100メートル、200メートルで活躍し、国体にこまを進めた。


    原典●『六稜會報』No.26 p.23