六稜会報Online No.26(1993.7.20)


    【特集】六稜クラブ活動小史
    社会科学研究会

    あの熱い社研はない


       社会科学研究会というより「社研」の方が知られている部である。その響きが、社会に関する研究というより社会を変革していく行動に結びつくような感じで、好奇心旺盛な少年の胸をときめかして、入部した人も多い。
       スタートは昭和24年だ。2年生だった徳永行平氏(63期)ら多感な5人の同級生が、創設した。当時は、戦後の混乱期で、政治状況も混とんとしていた。それだけに活動も唯物論の勉強もさることながら、政治問題に関するビラを配ったり、ポスターを貼ったりするのが主だったようだ。

       徳永氏によれば、24年に早くも、1年生部員のひとりが、反戦同盟を結成し、派手に署名運動などを展開したため、放校処分を受けた。社研などが中心となって全校集会を開き、抗議に立ち上がった。結局、自主退学でけりをつけたため、北野を揺るがす運動には、ならなかった、という。

      刺激的な評価が魅力
       そんな状況だったせいか、校内での社研に対する評価は「先輩に吹田事件の被告がいるそうや」「去年の運動会のクラブ行進で、社研だけが逆回りした」などと、刺激的だったようだ。
       その刺激に誘われて30年に入部したという黒田悠紀子さん(69期)は「部室は2階北側の廊下の突き当たり、身動きするのにやっとの“広さ”で、たえず部屋に人がいた。机の上の灰皿と吸いがらには驚かされた」と当時を振り返える。

       部活動の中心は、読書会で『史的唯物論』や『ものの見方、考え方』などが教材だったという。文化祭には機関誌『指針』の発行に全力を挙げた。他校の社研との交流も活発化、原水禁大会などの集会へも自主的に参加した。
       黒田さんは、当時の林武雄校長の「マンネリ化した文化祭をやめてはどうか」の発言に抗議し、校長室へ押しかけた思い出は、何かにつけて燃えた青春の証しだったという。

       が、いま、あの熱い「社研」はない。


    原典●『六稜會報』No.26 p.22