六稜会報Online No.26(1993.7.20)


    【特集】六稜クラブ活動小史
    バスケットボール部

    昭和15年に全国ベスト8 戦後も活躍のバスケット部


       男子は昭和3年、女子は同23年の創部。大変古い歴史をもっている。『北野110年史』の昭和15年の項に「籠球部、全国大会で活躍」と記されている。12年に大阪府大会で優勝、14年に国体初出場し、15年には全国大会でベスト8の好成績を収めた。
       これを第1期の黄金時代とする。第2期は大阪、近畿の大会で14回も優勝した戦後の22年から26年にかけての時代だ。21年の国体出場に続き22年にも連続出場、さらに24年から26年の3年間、西日本大会に進出するなど輝かしい足跡を残した。33年の仙台で開かれたインターハイの出場を最後に全国大会への道が閉ざされているのが残念である。

      府下で敵なし
       さて、その第2期黄金時代のキャプテンでOB会長の正岡徹氏(63期)によれば、速攻や逆エイトのスクリーンプレイが得意で、大阪府下では敵なしの勢いだった。
       しかし、全国の壁は厚く、なかなか上位への進出はならなかった。毎日新聞の大阪版に「北野の正岡の美技は特に目立った」と報じられ1回戦をものにした23年の西日本大会も、優勝した倉敷老松高校に2回戦で当たり49対50で逆転負けした。
       この年、女子部が誕生した。昭和32年のインターハイ予選の準決勝で大谷女高と対戦、延長の末破れはしたが当時の顧問博本正和先生は「感動の試合だった」と、部報に記している。

      部室は掘っ立て小屋
       創部当時の苦労話を、その部報『去辺(ゆくえ)』から紹介する。44期の岩木正彦氏の一文。

      「わたしは、大正15年に北野中学に入学し、昭和6年に卒業した。バスケット部に入ったのは3年生の頃からだったと思う。1、2年先輩が創設されたようだったと思う。名前は忘れたが、確か「地震」という先輩がいて、この人が尽力されたようだ。
       なんと言っても、バスケットの草創期で、これという指導者もいなかったので、各自が本を読んだり、工夫してやってきた。屋外のコートとあって、試合の前などはコートの砂を外に掃き出すのが一苦労だった。それから石灰を水で溶かせての線引きである。
       当時の校舎は中津だった。阪急電車と接するところにコンクリートの塀があったので、その塀に古材木を集めて2平方メートル位の掘っ立て小屋をつくった。これが部室だった。」


    原典●『六稜會報』No.26 p.22