昭和15年に全国ベスト8 戦後も活躍のバスケット部
府下で敵なし
さて、その第2期黄金時代のキャプテンでOB会長の正岡徹氏(63期)によれば、速攻や逆エイトのスクリーンプレイが得意で、大阪府下では敵なしの勢いだった。
しかし、全国の壁は厚く、なかなか上位への進出はならなかった。毎日新聞の大阪版に「北野の正岡の美技は特に目立った」と報じられ1回戦をものにした23年の西日本大会も、優勝した倉敷老松高校に2回戦で当たり49対50で逆転負けした。
この年、女子部が誕生した。昭和32年のインターハイ予選の準決勝で大谷女高と対戦、延長の末破れはしたが当時の顧問博本正和先生は「感動の試合だった」と、部報に記している。
部室は掘っ立て小屋
創部当時の苦労話を、その部報『去辺(ゆくえ)』から紹介する。44期の岩木正彦氏の一文。
「わたしは、大正15年に北野中学に入学し、昭和6年に卒業した。バスケット部に入ったのは3年生の頃からだったと思う。1、2年先輩が創設されたようだったと思う。名前は忘れたが、確か「地震」という先輩がいて、この人が尽力されたようだ。
なんと言っても、バスケットの草創期で、これという指導者もいなかったので、各自が本を読んだり、工夫してやってきた。屋外のコートとあって、試合の前などはコートの砂を外に掃き出すのが一苦労だった。それから石灰を水で溶かせての線引きである。
当時の校舎は中津だった。阪急電車と接するところにコンクリートの塀があったので、その塀に古材木を集めて2平方メートル位の掘っ立て小屋をつくった。これが部室だった。」