やっと“サッカーの時代”が
いまや、部員120人の大世帯
サッカーとは、で陳情
昭和22年に創設された頃は、大阪府下でサッカーを始めていたのは明星、堺中(三国丘)などがあったがわずかで、珍しいスポーツだった。それだけに、部の創設に奔走した当時の苦労は大変だったようだ。
初代キャプテンの吉田孝司氏(61期)は部創設の陳情のため議員会議に乗り込んだ。わずか一面しかないグラウンドに野球、ラグビー、ハンドボールなどが、いわばひしめきあって練習していたうえ、物資欠乏の時代、校友会の予算も限られており、新たな部の新設などとんでもない、といった雰囲気だった。が、議員会議での陳情はもっぱら“サッカーについてのレクチャー”だった、という。
国際的にも最も普及している球技のサッカーだけに隔世の感がする。
まるで戦車の突っ込み
そんな事情もあって、創部当時の苦労話をもう少し続ける。62期の新原健市氏によると、部の結成そのものが、大阪府の大会に参加の案内が舞い込んだのが切っ掛けだった。
大阪府中学サッカー大会に、天王寺中学などと初参加(出場は16校)した。サッカーボール一つでのスタート。数だけは何とかそろえたが、サッカーシューズなどという“高級”なものはなかった。軍靴か運動靴のいでたちで試合に臨んだ。
初戦の相手は優勝候補の明星商業とあってパスで翻弄され、キックでど肝をぬかれ惨憺たるもので勝負にならなかった。試合後の部員の感想は「相手の靴が、まるで戦車が突っ込んでくるように見えた」。
いずれJリーグのスターも
絶えず、ぎりぎりの部員という厳しい部活動だったが、29年には新人が10人近くも入部、一挙に活況を呈した。31年の冬季大会では準決勝にまで進出した。3位に終わったものの、期待を膨らませるものだった。国体予選は、優勝した追手門高校と準決勝で対戦、終了間際に追い付かれ延長戦で逆転され、“悲願”を果たせなかった。当時のキャプテン泉裕二郎氏(69期)は「今だに思い出しますよ。あのゲームは…」と、悔いが残っているという。
また、35年には大阪府冬季大会の決勝では2度の延長のすえ敗れたのも苦い思い出だ。33年から45年までコーチを務めた難波寿太郎氏(68期)は「部員集めには泣かされたが、今は120人の部員がいると聞いている。そのうちJリーグで活躍する選手が育ってくれれば…」と、むしろブームのサッカーに期待を寄せている。