六稜会報Online No.26(1993.7.20)


    【特集】六稜クラブ活動小史
    グライダー部

    戦争とともに歩んだ歴史
    わずか5年のグライダー部


    【写真】校庭で飛行するグライダー部


       数ある北野の資料の中で、なかなか見つからなかったのがグライダー部の存在だった。
       というのは勝利の栄光に輝く長い伝統を持つクラブでなく、むしろ戦争とかかわることで発足し、敗戦とともに消滅したからだ。

       部の新設は昭和16年5月。その名も北野中学校報国団国防部滑空班だった。その年の6月30日、朝日新聞社より光式三型と呼ばれる初級滑空機2機が寄贈され、北中第1号、北中第2号と命名された。秋の運動会には初登場し、5年生(55期)と4年生(56期)の部員が堂々と滑空した。当然の事ながら、3年生を大いに刺激したようだ。一挙に14人が新しく部員となった。
       練習は、今の北野高校から約5キロ上流にある淀川北岸の豊里滑空場だった。今でこそ、太子橋が架かり交通も便利になったが、梅田方面からの部員は渡しで通うというのどかなものだった。

       しかし訓練は厳しかった。紙面で再現するのは困難だが、簡単にいえば、長いゴム索を20人ぐらいが2列に並び、引っ張ってパチンコの要領で飛ばす、というシンドイ作業。しかも2時間かかってやっと1回乗れる、というものだった。
       当時の名簿によると、55期18名、56期9名、57期14名、58期9名、59期7名、最後の60期が5名と計62名で、運動部のなかでも最も少ないOB部員だろう。

       敗戦によって解散させられた滑空班だが、59期の岡原進氏は「操縦桿を握りしめて大空を飛翔した感動は、素晴らしい思い出として残っている」と感慨深げだ。
       北中1、2号機は、豊里滑空場で焼却され、その終焉を60期が見守った、という。


    原典●『六稜會報』No.26 p.21