終戦後、教育の民主化の一環として、軍政部は学校新聞の発行を奨励したようだ。当時の浜田校長は、級長クラスの人達に新聞部の創設をうながし、故 宮住 敏(60期)、赤松英幸(61期)、原寿治(62期)氏らが21年秋に結成、顧問に国漢の平田泰雄先生が就任した。同級生の父君に朝日新聞編集局長信夫韓一郎氏がおられ、浜田校長が引率して、同氏を訪問、新聞のつくり方を丁寧に教わった。
翌昭和22年2月1日、六稜新聞第1号が発刊された。顧問の先生は、北野の新聞として恥ずかしくない文章をというチェックだけで、記事の内容には一切タッチされず、部員は自由に書きまくった。新しい6・3・3制、男女共学への問題提起なども生徒の立場から論陣を張った。特徴は先生方の授業に対する手厳しい批判で、当時の先生方は新聞部がいちばんけむたかったのではないかと、赤松氏(第2代編集長)は語る。
今も続く、「天声人語」をならった「澱江眺望」はその当時から辛口のコラム欄であった。また、大手前との交流は最大関心事で、北野大手前学園新聞は共同で発刊、その後も、当時の両校新聞部OBの交流は続いている。
六稜新聞は創刊時より、いわゆる自主独立の立場をとり、生徒会の機関紙的性格はもたなかった。この流れは、現在にも続いている。
しかし、新聞の紙面づくりにたずさわる若者は少くなり、時には部員一人という時期もある。その中で、六稜新聞の燈は燃やしつゝ、新しい速報誌、『The Press RNC』も発刊する今の新聞部に対して昨年の六稜文化活動振興賞が与えられたことは意義がある。