六稜会報Online No.26(1993.7.20)


    【特集】六稜クラブ活動小史
    映画研究部

    ホームビデオの普及で変化


       組織だったOB会がなく、創部がいつかは不明。昭和40年代前半までは高校生向きの映画の発掘が中心で、映画の割引券を配ったり、ポスターの掲示をしていた。文化祭では、16ミリフィルム映画を借りてきて上映した。
       その後、部に8ミリ撮影機や映写機・編集機が購入され、ドラマ「何故」を制作、文化祭で発表。体育大会の記録映画も作った。

       40年代後半に大手前高校や東淀川高校など他校映画研究部との交流も。活動は、シナリオの研究、新聞掲載の映画評などを切り抜き、スクラップブックに集め、互いに感想を述べあったりもした。機関誌『MOVING PICTURE』を発刊、他校機関誌との交換も。

       昭和50年は、大変苦しい戦いの始まりであった。二重写しのできるカメラを用い、特撮技術や演出に凝るなどした。「映研の春」(昭和56年)は、その頃の代表作である。おそらく映研部史上初めての合宿が昭和57年8月ロケーションを兼ねて瀬戸内海に面した香川県五色台で行われた。映画「いないないばあ」を撮影。少しとぼけたひょうきんな主役を好演した西田恭之氏(96期)は、西田シャトナーとして劇作家を目指し、その後同期生小林善之氏らと劇団惑星ペスタチオを旗揚げ、関西で年2回ほどの公演をしている。

       昭和60年代から映画研究部の8ミリ映写機にもトーキーサウンドの時代がやって来た。必要なシーンで、納得がいくまで何度も録音し直すことが出来るようになった。しかし、まもなくホームビデオ時代、現像不要、撮影したシーンがすぐに確認できる。音も同時に記録される。フィルムをスクリーンに映写して楽しむ時代は過去のものとなってしまった。
       同時に映画研究部も変化しつつあり、今また映画の原点に戻ろうとしている。


    原典●『六稜會報』No.26 p.19