道場に「自他共栄」の掲額
米国と交流する北野柔道
再発足は昭和25年
同通知書には「六稜柔友会より逸材を輩出したいものだ」とあり、その会員名簿には、柔道部出身者、部員合わせて70人余の名前が掲載されている。その後、敗戦まで対抗試合などの記録はなく、活動の様子が明白でない。敗戦の昭和20年、占領軍の政策で、学校柔道は廃止され柔道部は廃部となった。
25年に、柔道部がやっと再発足した。当時の顧問は後に京大人文研所長になられた漢文の福永光司先生と英語の田中博先生で、8人の部員が戦後1回の柔道部卒業生となっている。
29年に、最初の興隆期が訪れ、古賀、大村、由利の三氏を中心に柔道部の一時期を画し、特に古賀陸生氏(68期)は国体に出場する強者であった。
ニュージャパン道場と北野
再発足した柔道部に大きな意義のある道場がある。大阪市東区(現中央区)のニュージャパン道場だ。
昭和30年に、対天王寺高校との定期戦が始まったが、その記念すべき対抗戦の道場となったのが、ニュージャパン道場だった。大阪府大会等と違って対天高戦は、柔道部生活で最大の情熱を傾ける試合だけに、この道場の存在は忘れ得ぬものになっている。
また、昭和19、20年にかけて本校柔道教師を務められ戦後、大阪府警の師範だった小川敬一先生との出会いもこの道場だったのだ。
昇段試合での再会をきっかけに70期の佐野信三主将の熱心な懇望によって北野での週一回の指導が始まった。全日本選手権で準優勝の経歴を持つ師の指導は合理的でしかも、柔道の本質を全身全霊で教えるというものだった。成果は、昭和33年に花開き、2月の大阪府高校学年別新人大会で1年優勝、2年3位と好成績を収めた。さらに5月の第12回府民体育会では団体優勝した。
進む国際交流
北野道場には「自他共栄」と、嘉納治五郎の筆による書が揚げられている。大正15年の講演で嘉納は「自他共栄は相助け相譲ることである」と述べている。
顧問の篠原芳雄先生が、平成2年に柔道指導のため、米国シアトルのケントウッド高校に行き、交流を深めた礼にと校長のウィルソンより寄贈されたものだ。
平成3年、OB会が中心となって校長夫妻を日本に招待した。昨年は2人のケントウッド高校生が来日、今年は4人の部員が渡米、交流が続いている。又、今年ケントウッド高校柔道部出身であるクリントン氏が来日、京都で英会話学校の教師をしながら本校OBと柔道の修業を続けている。