聖書研究からスタート
活動は聖書の勉強会が中心。奉仕も活動の一環で、辻本嘉助氏(68期)は「放課後に便所掃除をしていると『おまえら何してんね』と言われた」と話すそんな奉仕もあったのだ。
当時の文化祭では、キリストの生涯や伝道者パウロの伝道旅行を地図や絵に描き壁に掲げたのをはじめ、聖書、聖画などの展示、さらに講堂での賛美歌の合唱だった。
『北野百年史』によると、27年からハイYの名が登場、32年に21人、34年38人の部員がいたと記録されている。活動が活発だったことがうかがえる。昭和38年を最後に百年史から名前が消えている。43、44、45年と、「聖書研究会」の名称が見られるが、その後は激しい学生運動の荒波にのまれたのか、その名も消え、自然消滅したようだ。