戦後初の第1回国体に出場
イ競技では4年連続全国優勝
【写真】第1回校内器械体操大会(昭和7年)
校内競技大会が行われていたほどだから技術水準もかなりだったとみえ、14年には明治神宮国民大会(いまの国体)に参加している伝統の部である。戦後すぐの21年には、第1回の国体に北野運動部のトップを切って出場した。北野スポーツ復活の幕明けを告げるものだった。
国体出場時の主将吉田東輝氏(60期)の話で再現する……選手は吉田氏のほか、山田文一氏(60期)、仙波隼夫氏(61期)の3人。府下大会で優勝していたうえ、近畿開催のため会場は西区のYMCA体育館とあって、緊張はなかった。北野の体育館が戦争で焼失したため、ふだんの練習もYMCAを使っていたので、勝手が分かっていた。床なども穴が空いていたりしたが、むしろ楽な気分だった。
とはいっても、さすがは全国大会で、レベルも高く、鉄棒、跳び箱、マットの三種目で争った競技では山田氏の6位が最高で、吉田氏は10位。団体は10位以下だった。学校では部室の前の黒板に成績が発表され、生徒らが立ちどまって見ていた、という。
付け加えれば、この年の西日本大会では、団体と個人の吉田氏が優勝するという栄冠に輝いた。
30年前半は大阪体操界をリード
それから10年。30年代前半の活躍は際立っている。近畿地区では、男女とも、個人、団体は常にトップレベルを維持、大阪の体操界のリーダー役を果たしていた。
当時、体操競技は鉄棒など5種目のほか、特別種目として団体徒手競技、インディアンクラブ競技などがあった。長崎県で開かれた33年のインターハイにはインディアン競技で久保良三氏(71期)が優勝、この種目四年連続の全国制覇という偉業を成し遂げた。最初の優勝者は30年の伊藤誠三氏(68期)、次いで69期の宮下繁氏、70期の黒田正明氏と続いていた。また、32年のインターハイでは小川達二氏(70期)が、跳馬などで好成績を収めている。
27年から38年までコーチとして指導した中沢貞岑氏(64期)は「強い、ということもあり活気があった。連日のように先輩が来て、指導するなど物心両面の支援が、活気になっていたのでしょう」と。長崎で果たした4連勝も、そう驚かなかった、という。むしろ5連勝が懸かった34年の大会は「クラブを落とし、優勝を逃したのが悔しかった」と振り返る。その競技も新体操に取って代わり、38年以降はなくなった。
目立つ女子の活躍
一方、女子は新制高校発足と同時にスタートしたが、その活躍にめざましいものがある。29年の近畿大会優勝をはじめ、27年から3年連続のインターハイ、28、29年の国体に出場した紅谷富美子さん(67期、現鈴木)の活躍や28〜30年のインターハイ出場の清水キヱ子さん(68期、現中沢)、32年に出場の山下圭子さん(70期、現京田)らは部史を飾る名選手だった。
36年に、大西幸成氏(74期)がインターハイ出場したが、後続の優秀な現役らも、体操王国を築く清風高校の台頭の前に歯が立たず、全国レベルの大会への出場を果たしていない。が、「北野体操ここにあり」の成績に、OBの期待は大きい、ようだ。