大正14年校友合組織の改正で弁論部が学芸部より独立し部としての活躍が目立つようになる。大正15年には神戸高商主催の全国中等学校弁論大会に岡田喜雄氏(40期)が出場。50校の代表選手の中で「白鳥の叫び」の演題で優勝。この大会には三木武夫元首相も出場していたという。
しかし、戦時体制に入るにつれ、弁論は次第に下火になり、部活動も停止となる。
昭和33年、河原剛先生を中心に有志が再興し、その年の11月第1回優勝弁論大会を自治会と共催、男子15名が参加、講堂は満員の盛況で、「死刑は停止してみること」の題で弁じた河島洋征氏(72期)が優勝している。
このころの弁論部は機関誌『評論“黎明”』を発行し評論活動も活発であった。しかし、昭和40年代に入って再び下火となって自然消滅。