実績と伝統を誇る
創設70年を迎えたラグビー
【写真】大阪府代表決定戦、対牧野高校(昭和62年)
「卵形のグロテスクなボールに魅力を感じて集まった。とにかく15人以上集まり初めてユニホームを着た。真紅と白の横縞であった。が全員揃って総合的な練習はなく、原書を訳しルールを覚えながらの練習だった。」
記念すべき最初の試合は12年11月19日、対関大戦。善戦せしかど体力の差如何ともする能はず0対6で敗れる。
全日本の名選手を輩出
13年1月19日、北野校庭で第1回の天王寺との定期戦3対14で敗れるものの大阪で初めての中学対抗のラグビー試合だった。この定期戦、昭和8年の初勝利まで9連敗。再び杉尾氏の手記「北野ラグビーは強いという噂は未だ耳にせぬが、とまれ日本的な名選手伊藤、岩前らの天才を世に出した北中ラグビーも………」(昭和8年6月記)と創設当初は成績は余りパッとしなかったようだ。初代キャプテン伊藤次郎氏(39期)、岩前博氏(40期)はそれぞれ慶応、京大で活躍、北中ラガーの誇りだったのだ。
大阪の“早慶戦”
天王寺との定期戦は、戦争中の18、19年の2年間こそ中止されたが、既に69年の歴史を刻む。特に7年から花園ラグビー場で行われるようになって、大阪での“早慶戦”と称され職員、生徒が総出で応援して、大阪スポーツ界の名物になった。が、30年の定期戦で、左フロントの野本武氏(68期)が試合中に不慮の死を遂げたことは忘れられない出来事だった。以後、公式戦では背番号1を欠番にして試合に臨み、氏の死を悼んでる。
16年の全国大会で優勝
ここで、その輝かしい戦績に触れると、大正14年、1回戦で京都一商に完敗したものの全国大会に出場、昭和13年度から16年度まで4年連続全国大会へこまを進めた。14年度の大会は準決勝で秋田工業に抽選で敗れベスト4、16年度は報国団蹴球班の名で出場の変則全国大会(全国大会が禁止され、ラグビーは関西大会)で天王寺を破り優勝する快挙だった。
花園で北野旋風
戦後は、野球や陸上、ハンドなどの活躍が目立ち、鳴りをひそめていたが、32年に7人制の関西大会で準優勝、34年、39年の全国大会大阪予選に決勝戦まで進むが、惜しくも敗れ、全国大会へであと一歩のところで涙をのんでいた。
復活ののろしは、59年だった。この年、春の大阪大会で優勝した。勢いはつづいた。62年の春、大阪地区予選で優勝、全国大会予選も勝ち抜き、全国大会出場を果たしたのだ。
「名門北野復活、46年ぶりの花園へGO」と新聞は報じた。1、2回戦と勝ちすすむごとに、関西のスポーツ各紙の一面は「文武両道、花園に北野旋風」との見出しが踊ったのは記憶に新しい。強豪伏見工に敗れたがベスト16。翌年春の近畿大会でも3位の好成績を収めている。