英語がしやべれる 興奮からはじまった
平川唯一の「カムカム・エブリボディー」の時代である。北野でも流暢な英語がもてはやされる時代となった。中真一氏(62期)はESS創設期を語る。「英語をしゃべるということは、戦争が終ったということを実感することだった。
アメリカ帰りの佐藤譲君(62期)を中心にして、英語をしゃべろうという気分があふれていた。学校内のスピーチコンテスト、英文毎日主催の高校英語弁論大会など、英語をしゃべることに熱気があった。水鳥喜平先生も格別の熱意でESSを指導して下さったし、進駐軍の通訳をされていた大原一夫先生の発音にはうっとりした。」
佐藤氏は高校英語弁論大会に必ず入賞する代表選手であった。女性ESS部員の二谷(旧長沢)世津子さん(63期)は「コンテストの前は、屋上で早朝練習をしたもので、葛西先生が聞いて下さり終るとおせんべいをくれた」と懐しむ。
文化祭では、宝塚歌劇団で衣裳を借りて「ヴェニスの商人」を古英語でやったそうである。
北野ESSと「ヴェニスの商人」は切っても切れない演目で、昭和29年にも、文化祭でこれまた宝塚からの衣裳を使って上演、好評を博したと、藤洋作氏(68期)は語る。
このころのESSは全盛期で、いわゆる英語の使い手が輩出している。67期の土井憲一氏によれば、「部ではもっぱら英語で話し、高校弁論大会では出れば入賞だった。京都の英語弁論大会で入賞したとき、平川唯一先生が審査員で、入賞のお礼を平川先生のNHK講座のおかげと英語で言ったところ随分喜ばれた。また、アメリカ文化センターを拠点にして他の高校ESSとの交流もあって充実したクラブ活動であった。」
その後の活動も、文化祭の英語劇、スピーチコンテストの出場が中心になって、続いていくが、国際化に伴って来校するアメリカ人との討論会をもったり、ホノルル市長杯全日本青少年英語弁論大会に内海由美子さん(95期)が、全関西高校英語弁論大会に橋本美佳さん(96期)が参加するなどの活躍がみられる。