六稜会報Online No.26(1993.7.20)


    【特集】六稜クラブ活動小史
    演劇部

    男優不足が悩み 創設期と逆の演劇部


       昭和22年、八木繁・古川哲夫(62期)氏らが演劇部をつくり、戦後の新劇運動の波に乗ろうとしていた。本格的には昭和23年、大阪府下の演劇コンクールが大手前会館で開催され、三好十郎の「崖」を上演、脚本では主人公は老婆だったが女優がいないので老爺にした。これは反戦劇であったが、表彰を受けた。これが、演劇部の初の対外活動であった。
       この頃はまさに左翼演劇の時代で、芝居をプロパガンダの手段にするための論争が繰り返されたが、徳永行平・実方謙二・村岡有尚(63期)、武久慎・中川輝夫(64期)氏らは、創作脚本による主張に力点をおく方向に流れを変えた。

       24年のコンクールでは「窓」(徳永行平脚本)が優秀賞を授賞、大阪の新劇界でも評判になった。当時は、前進座が共産党になり、商業演劇からしめ出され、ドサ廻りをしていたが、昭和24年、河原崎国太郎グループの前進座を招き演劇部主催により講堂で「ヴェニスの商人」を上演した。よく学校の反対がなかったものだと徳永氏は述懐する。

       しかし、この演劇華やかな時代もしばらくすると沈静化し、一時は休部状態になるが、昭和30年、梅沢喜八郎氏(69期)らが再興、その年の文化祭に「三年寝太郎」を上演した。又、大阪府下高校演劇大会に真船豊の「寒鴨」を演じて入賞する。その時の役者の一人が現在演劇界で活躍している中田浩二氏(69期)である。

       その後も休部、再開を繰り返したが演劇の火は消えず、本年の文化祭では女子ばかりで「奇跡の人」を上演、創設期とは反対の男優不足に悩んでいるのが現状である。


    原典●『六稜會報』No.26 p.15