ハンドボール界に大きな足跡
六稜クラブで全日本の3位も
【写真】創部50周年記念パーティー(Jul..21,1991)
天高定期戦は最古の対抗戦
運動各部に盛衰があるのは、どこも同じだが、この部には誇るべき輝かしい歴史がある。対天王寺高校との定期戦だ。日本のハンドボール競技史上、対抗戦としては一番古く、しかも長く続いているのだ。15年の大阪中学校選手・大会の決勝戦で対戦したことが切っ掛けで、定期戦が始まった。戦争による中断はあるが、35年ごろまでは大阪のトップレベルにいた両校は、良きライバルとして競い、この定期戦は各方面から注目された。
インターハイで3年連続ベスト8
26年の第2回全国高等学校ハンドボール選手権大会を皮きりに3、4回と3年連続大阪代表として出場した。特に4回大会では優勝候補の前評判も高くシードされたが、準々決勝で敗れベスト8に終わった。ちなみに2、3回大会もベスト8だった。
29年12月、大阪府立体育会館で行われた第1回全日本総合室内ハンドボール選手権大会には、OBと現役の混成で「六稜クラブ」を結成、社会人や大学チームと対戦した。準決勝で大学ナンバーワンの日体大に、小差で惜敗したが、3位決定戦では芝浦工業大を破り3位となった。
こんな素晴らしい戦歴を持つ部だけに、当然の事ながらOBは、ハンドボール界に大きな足跡を残している。56期の滝野博氏は京大のハンドボール部を創設、早稲田大、関学大、神戸大の全盛期には、北野OBが主力選手として活躍した。岡山県のハンドボール協会会長は58期の近藤正次氏。
かつての活躍に比べ、このところ全国大会などへの出場はないが、53年に誕生した女子部は平成3年に北ブロックでベスト4に入るなど徐々に力を付けてきている。
忘れ得ぬ平石先生の指導
ハンドボール部にとって忘れることのできないのは、平石亮三先生のことである。在職中の30有余年、顧問として指導、とりわけ戦中戦後の苦しい時期に、部員に対し物心両面の援助を惜しまれなかった。東北なまりの独特の語り口でだれかれなしに接し、厳しかったが人情家で、温かい先生だった。
創部時のキャプテン志賀裕氏(54期)が病床に伏されたとき「オレが分かるか」となんども手を握り返し「教え子が先に死んではいかん」との、先生の人柄そのものをしめす話が語り継がれている。
先生が亡くなられてもう9年経つ。