六稜会報Online No.26(1993.7.20)


    【特集】六稜クラブ活動小史
    応援団

    「主役は生徒」が応援団の指針
    市岡との復活定期戦で組織化


    【写真】北中の人文字もあざやか鮮やかな応援風景


       組織された部としての記録こそないが、定期戦や全国大会などではリーダーが指揮した組織的な応援は戦前から行われていた。『創立110周年誌』によると、昭和9年11月に第2応援歌『澱江の水』成る、とある。また、作家の梶井基次郎氏も応援団のリーダーで「弁慶」の愛杯で呼ばれていた、との記録がある。してみるとかなり古くから存在していたようだ。

      組織化は昭和31年
       現在のように部として組織化されたのは昭和31年だった。きっかけは大正11年を最後に中断されていた対市岡との野球定期戦が復活した30年、柔道部員がリーダーとなって声援を送った応援だった。北野が“ひとつ”になった感動を味わったからだ。当時2年生だった69期の菅正徳、渋江克彦両氏らが中心となり応援団をつくり、翌年、正式に部として発足した。
       部の活動は、運動部の対外試合の応援と校内行事の手伝い、運動各部間の連絡調整、応援団誌『澱江』の発行などである。41年夏には、高校野球府予選の応援で、マナーが良いと表彰され『朝日新聞』に紹介されたのも自慢の一つだ。その前年に女子部員が誕生した。

      忘れ難いバス事故
       応援部にとって忘れ難い思い出は、32年7月30日の事故だ。藤井寺球場での対清水谷高校との準決勝で、チャーターしたバスが大和川堤防下の田んぼに転落、多数のけが人をだしたことだ。学校の許可を得ず部が勝手に手配しながら、事後の処理すらできず、負傷者や学校に迷惑を掛けた、と当時の部員は今も反省の気持ちでいると言う。それだけに、部の活動は「主役は生徒」という指針が守られている。

      花園のラグビーは誇リ
       62年の暮れ、ラグビー部の全国大会での快進撃は、応援部を再生させた。11日の大阪府大会優勝の日から、全国大会への応援態勢を整備にかかった。OBが北野に足を運び始めた。現役リーダーとの合同練習、講堂での応援歌の練習と部が生き生きとしてきた。その成果がオール北野による63年元旦の花園フィーバだったのだ。花園ラグビー場開設以来の満員札止めとなった。
       花園のスタンドを埋め尽くした大応援団を、現役とOBが声をからし、歓喜の渦中に身を置けたことは応援部の誇りだ、といいきるOBたちだ。
       が、OBらにとって淋しいのは、毎年10人前後いた部員が平成4年にゼロとなったことだ。ひとのために何かをすることに価値を見い出し、喜び悲しみを共にすることに生きがいを持つ部だけにその思いは深刻だろう。
       しかし、OBらは「存続が困難にせよ、ひとたびことがあれば、北野のもとに結集できることを信じている。花園を忘れない」と意気軒高だ。


    原典●『六稜會報』No.26 p.13