六稜会報Online No.26(1993.7.20)


    【特集】六稜クラブ活動小史
    美術部

    OB名簿に「手塚治虫」 絵画部から美術部へ


       佐伯祐三(30期)・吉原治良(36期)両氏は中村堯興先生(在籍明治32〜昭和8)の教え子であったが、その頃、美術系のクラブがあったかどうかは分からない。その後任の岡島吉郎先生の在職中(昭和9〜41)にはクラブとして存在していた。手塚治虫氏(59期)のころは絵画部といっていたらしい。画家となった卒業生も何人もいるが、美術部に籍を置いていたかどうかは不明である。

       30年前の美術部員であった岸田知子さん(78期)によると、当時、部室にガリ版刷りのOB名簿があって、そこに手塚治虫氏の名を見つけて驚いたのを覚えているそうだ。「手塚治」の名で、「医師」とあった。その名簿にはかなりの人数の名があったようだ。
       そのころ岡島先生の退職直前で、先生自身、ヨーロッパ旅行をされたり、教師生活のまとめをしようとしておられた気配があって、忙しくされていた。

       美術部の大きな仕事は、文化祭と夏の合宿、それに大阪市立美術館での高校展であった。文化祭は以前は文化部の祭典だったので、4、5教室使って展示をしていた。合宿は毎年、志摩半島の波切に行った。今は信州方面。

       高校展は今もメインイベントのようだ。現在はこれに、第一学区美術展や学内展が加わっている。  美術部のOB会というのではないが、中村弘先生(49期・旧職員)たち岡島先生の教え子のグループ展「KAME展」が毎年開催されている。


    原典●『六稜會報』No.26 p.11