今や、全国大会の常連
大正10年発足の山岳部
【写真】インターハイでのキャンプ設営競争
大正11年にアルプス登山
部の創設者は、チリヤンの愛称で親しまれた山本荒吉先生だ。大正8年に北野中学に着任。地理、歴史の教科を担当された。登山歴については聞き及んでいない。専門の学科が示すように実証家だったのだろう。その考えを具体的に発揮できる山登りに情熱を傾けられたのかも知れぬ。
11年の夏には、当時、中学生には難しいと言われていた日本アルプスの登山に挑戦。多数の中学生を引率しての登山だけに、その苦労は大変なものだったと推察する。『六稜山岳会報』によると、参加者が多数だったため2班に分けて実施。登山部の行事と言うより学校行事の一環として行われたものだった。そのころの中学生の登山としては画期的なもので文武両道を目指した北野精神がよみとれる。
この登山の成功によって、その後毎年夏の行事として引き継がれて行く。1年生は大峰山、2年は富士山、3年以上アルプスと太平洋戦争が激しくなるまで続いた。
OB会は昭和50年に結成
戦中、戦後の混乱期は登山どころではなかったのか、そのころの記録がほとんどない。山岳部と改称された時期も不明確で、細々と夏山登山の訓練をかさねていた。そんなこともあってかOBと現役との交流はほとんどなかった。
昭和42年、やっと交流のきっかけをつかんだ。寂しがり屋の山男たちは、新人の歓迎会を共催することで現役との接点をみつけた。物心両面の支援を痛感して「六稜山岳会」が50年に誕生する。
それにつれて、現役の活動も生き生きしだした。59年には女子が大阪府代表として初の全国大会に出場した。平成元年には、男子と女子がそろって高校総体に、3年には男子、4年は再び男女がペアで出場するという活躍ぶりで、全国大会の“常連”になりつつある。もっともこの実績、15年間顧問を務めた猿田茂先生の指導によるところが大だ。
森本氏の遭難死
山岳部にとっての痛恨事は、何といっても、有能なアルピニストだった49期の森本嘉一氏の遭難死だろう。昭和36年、大阪市大創立百周年記念事業の一つとして、挑んだ未踏峰のランタン・リルンの登山で隊長として参加。雪崩のため行方不明となった。森本氏が北野在学時の部長だった水鳥喜平先生は「前途有望な山男を失って真に残念、ヒマラヤの話が聞きたかった」と折りあるごとに話し、その死を悼まれている。この救援隊の隊長が54期の鈴木武夫氏だったのも何かの因縁だったかも知れぬ。