戦後も400リレーで全国制覇
極東選手権に本校生が代表
【写真】第1回全国大会400リレーに優勝(昭和23年)
明治の時代に早くも活躍
こんな伝統を誇る部であるが、部創設の年代が定かではない。明治32年7月発行の『六稜』第13号によると、同年4月11日、堺の第二中学で開かれた大運動会で3選手が出場、1位になった、との記述の後「わが陸上運動部未だ衰えたりとすべからざるか」とある。さらに同33年5月の第16号は「2月に開かれた府下6中学連合運動会に、選手11名が出場」と記されているが「部」として存在していたかどうかは不明である。というのも、当時の選手の多くは、野球部の選手で、陸上はその才能を生かした余技だったようだ。
後年、極東選手権などで活躍した25期の北村(旧姓岡本)栄二郎氏も野球部の選手だった。明治40年10月17日に大阪府10中学連合運動会の600競走で優勝するが、当時の新聞は「北中岡本君は、2位の天中岡田源次郎君に2間、3位の市岡中佐伯達夫君に6間の差で勝つ」とあり、その実力は相当なものだった。ちなみに3位の佐伯氏は野球部の選手で、存命中、高野連会長として活躍されたのは周知の通りである。
北村氏は、神戸高商の陸上競技部を創設され、大正4、6年の極東選手権に日本代表として出場、6年では走り幅跳びで2位の好成績を収めた。
超中学級鴻沢氏の活躍
大正4年7月の『六稜』に「本年度より徒歩部を新設する」との記述があり、この年が陸上競技部の正式なスタートであろう。第1号のヒーローで、部史上最高の主役は鴻沢吾老氏だ。部史も「本校の歴史の中で、すべての運動部を通じ、在学生として空前絶後の巨大な足跡を残された超々中学級のアスリートであった」と、鴻沢氏に最大級の賛辞を送っている。
部史から、鴻沢氏の活躍を拾ってみると、大正6年4月の第2回東西対抗陸上競技では、円盤投げ1位、走り高跳び2位、五種競技3位の大活躍。朝日新聞は円盤を手にした写真をトップに、見出しは「西軍の麒鱗児 北中生鴻沢君」だった。5年生の大正8年、第2回中学選抜選手陸上大会では走り幅跳びなど5種目に出場、全種目を制覇した。5月のマニラでの極東選手権大会には12人の陸上代表選手の一人として出場、唯一の中学生代表だった。
大正14年に徒歩部から競技部に改称。昭和13年の府下中学校連合陸上大会では1年から5年まで学年別で各学年が優勝の快挙をなしとげた。
400リレーで全国制覇
学制改革で新制高校となった昭和23年には女子部も発足したが、特筆すべきはこの年、第1回全国高校大会の400メートルリレーで優勝したことだ。メンバーは竹井一郎、鶴田康、安田哲也、岩田準一の4氏。岩田氏は100でも2位となり、学校対抗も全国6位だった。この大会は7月23〜25日、名古屋・瑞穂競技場で行われた。インターハイだ。3位でバトンをうけたアンカーの岩田氏が2人を抜いての逆転優勝だった。コーチで引率した現OB会長の出口庄佑氏は「岩田君をアンカーに起用した作戦勝ち。トップでゴールしたときは感激しましたよ」と今も脳裏に焼き付いているシーンを思い出す。
この年OB会「六稜アスレチッククラブ」が発会。