六稜会報Online No.26(1993.7.20)


    【特集】六稜クラブ活動小史
    野球部

    甲子園全国制覇!!
    創部100年の六稜野球部

       明治26年(1893年)4月3日、本校最初の対外野球試合で同志社に敗北(創立110年史)。
       ちょうど100年前のことであり、当時は大阪尋常中学校の時代、校史史料、学校日誌によれば、卒業生24名の年というからおどろきである。

       明治31年(1898年)には「奈良県中学校の野球競技会に校長以下選手10名を引率して出張」とか、同年9月「城内練兵場にて第五中学(後の天王寺)生徒と野球競技あり。本校破る」等の記録あり。その後、天王寺・市岡との試合が毎年続く。
       特に市岡との毎年の定期戦は、当時の一高・三高戦にも比すべき源平の紅白旗(北野は白)を打ち振り大阪名物となった。しかし、大正11年、両校応援団の乱闘騒ぎから中止となった。
       なお、記録によれば、瀧川事件の瀧川幸辰京大総長、佐伯祐三画伯も野球部の先輩である。

      甲子園への初出場
       昭和2年(1927年)、第13回全国中等学校野球大会の大阪予選を勝ち抜き、大阪代表として甲子園に初出場。
       一回戦で強豪大連商業を4-3で破り、二回戦で水原茂の高松商業に1-8で敗退したが、同商業はこの年優勝している。その直後の中部日本選抜野球大会(金沢)では見事優勝をはたしている。

        北
      野
      高
      優
      勝
      ナ
      イ
      ン
      市村  博
      広瀬 繁雄
      長谷川 圭一
      山本 次郎
      多湖 隆司
      梅田  明
      慶留 間一
      市石  巌
      品川  潔
      戦後の黄金時代
       第二次大戦が終りをつげると、白球に餓えていた六稜健児は直ちに野球部を再建。昭和23年(1948年)の選抜に大阪代表としての初出場に引き続き、3年連続の出場。まさに甲子園原頭に北野の名をほしいまゝにした。
       なかでも昭和24年(1949年)に戦前の予想をくつがえし、中西太の高一高、福島一雄の小倉高、西村修の桐蔭等、超高校級が輩出したこの大会で、清水治一監督(57期)ひきいる北野は無欲の快進撃を続け、日川、桐蔭、岐阜商を連破、遂に優勝戦で芦屋高校に延長12回の熱闘の末、快勝。六稜の歴史に残る大きな一ページを飾った。

       その後、昭和27年(1952年)にも選抜出場をはたしたが初戦で敗退。しかし、大阪に北野ありの名声はこの4回の出場で全国に知れわたり、強い野球部への入部を目指し北野進学を希望する中学生が増加した。

       昭和30年から3年間も好投手丹羽弘氏(70期)を擁して予選で今一歩のところまで行ったものゝ涙をのみ、その後はめぼしい成績はない。
       しかし、部員数は現在69名、母校体育科教諭でもある篠崎友宏氏(92期)が夢よもう一度と厳しい指導を続けており、OB会も多湖隆司会長(63期)、磯村昭夫事務局長(72期)のコンビを中心に後輩たちへの物心両面の援助を続けている。


    原典●『六稜會報』No.26 p.8