北野を揺るがした勤評闘争 運動部室の電灯設置要求も
自治会の誕生
昭和23年4月、大手前高女と北野中学の間で、生徒と教員の交換が行われた。同年5月24日、校友会は廃され、学校自治会が発足。全生徒の投票により初代会長は内藤寿一氏(61期)が選出された。任期は一学期。投票方式は、2名連記とし、全立候補者のうち得票数1位が会長に、以下副会長、書記2名、会計、と計5人が選出された。テーマは男女共学のメリットをどう生かすか、生徒の意見をどう汲み上げるか、自治会費の分配、会則の審議と、創設期特有の性格であった。会則の審議は3学期(会長徳永行平氏(63期))になっても続けられた。焦点は、名称を「学校自治会」とするか「生徒自治会」とするか、最終決定権は校長にあるのかどうか、という点にあった。自治会役員を始めとし、生徒間での議論はいつまでも続き結局は「学校自治会」として発足し、「校長は決定権を留保する」というところで決着した。会員は生徒を正会員とし、教職員を特別会員とする意味でも学校自治会であった。
昭和24年度より執行部5名連名の立候補となった。まとまりのなかった執行部を是正するためであった。
昭和25年になり、教育界はマッカーサーの勧告によるレッドパージの嵐に見舞われた。その後、昭和27年4月には破防法反対ゼネスト、5月1日には血のメーデー事件が頻発、6月には北野生数名が逮捕された吹田操車場事件がおきた。自治会と直接関係がなかったとはいえ、以後、自治会活動は低迷する。一方、社研をはじめ、民主主義、社会主義の名を冠した研究会が誕生し、議論は盛んであった。
修学旅行男子参加要求
昭和30年頃の自治会は、生徒の声を反映する中で、もっぱら男子生徒の修学旅行参加に向けられた。自治会にとって長い間の懸案事項であったが昭和42年3月、初参加が叶った。500名中476名が参加した事実も、いかに生徒達が永年待ち望んでいた事かがわかる。現在も実施されている。
勤評闘争
昭和32年12月、日教組は勤務評定に対する危機感を強め全国の教員組合に向けて緊急事態を発表した。教員の昇給をストップする初期の目的から、教員の組合からの離脱を促し、平和、民主教育への圧力ヘと拡大していった勤務評定に対する闘争宣言であった。昭和33年に入って高知県では生徒を巻き込んだ勤評反対闘争が展開され、次いで大阪にも飛び火した。昭和33年一学期、高教組北野分会は勤評反対のハンガーストライキを決定した。しかしそれは授業を犠牲にはせず、ドクターストップが入るまで続けられた。組合は、生徒へ、ハンガーストライキ決行中の知らせはしたものの、勤評に関するアピールは何等なされなかった。しかし1週間から10日程も続く、異様な授業風景は生徒を動揺させていた。2学期に入り、後期自治会(会長丸山公為氏72期在学中病死)は、勤務評定を意識しながら活動し始めた。10月黒田了一教授(市大法学部長、後府知事、41期)を招き、勤評についての講演会を開き、11月には弁論部と共催の第1回優勝弁論大会を開催10人の弁士中、社研部長は勤評反対の論陣を張った。又、12月には久しく絶えていた自治会機関紙を発行、紙上、勤評は生徒の利害と無関係ではないと主張した。この頃、持病の腎臓病が悪化した丸山は入院し、二度と登校しない。
昭和34年2月2日(月)北野教組(田上委員長)は、林校長、藤井教頭不信任決議声明文を、大書して校門に張り出した。その後一週間、自治会と生徒全員を巻き込んだ騒動に発展する。
翌3日早朝より臨時生徒総会を告げるビラを配布した後、午後12時半より総会を講堂で開く。左右激烈な議論の中、1時には閉会、翌4日に持ち越す。4日の総会はテレビカメラが入り、新聞記者の取材活動が行われている中、結論の出ないまま推移、3日目に持ち越される。
2日目のマスコミの取材攻勢に遭って、総会を正常な議論の場にしていく自信がなかったからであった。第二回総会は、強引なテレビカメラに対して場内は騒然としていた。また、3日午後の自治会室には来訪者が多かった。指導部の井内先生を始め、就職間近の3年生女子、大学生のオルグ、新聞記者達であった。唯一、組合からの接触がない事が当時の執行部としては解せないところであった。組合は、少なくとも生徒を煽動したという謗りだけは受けたくなかったのであろうか。第3回生徒臨時総会は、6日に開かれた。マスコミは新聞記者だけで、カメラは一切会場には入らないという約束ができた上での、昼休み中30分間の総会であった。最後に執行部より、修正を重ねた決議文が提案され、続く5時限目のホームルームでの討論、採決を期して解散した。
提案された決議文は概ね以下の内容であった。「先生方の勤評反対闘争はやむを得ないものと思う。校内の秩序を回復し私たちが勉学に専念できる環境を作るためにも、林校長には勤務評定書を提出しないよう要望する」。3年生の一部クラスで採決が取れなかったが執行部決議案に対して、賛成795、反対190の結果を得た。全校生1360名のうち6割、意思表示をしたうちの8割が執行部案を支持した。翌7日(土)決議文は校内に張り出され、執行部3名が校長官舎に赴き、玄関の間に応接に出られた林校長に、決議文を読み上げた上、手渡した。それは厳粛な儀式を行うような雰囲気であったと、当時の生徒は証言している。騒動は一週間で完結し、その後自治会の動き、生徒の動きは一切なかった。
勤評闘争の後始末
用心深く立回った執行部とはいえ、当初から予告恐迫されていた処分は、無届、無許可集会を強行したという点で断固行うベしという学校側の方針であった。昭和34年度前期執行部(宮武和義会長72期)は、処分反対の運動に終始した。PTAも処分反対にまわった。処分は撤回された。しかし、組合の一部の教師が生徒を煽動した結果であり、全ての責任はその教師にあるとする組合と学校側の妥協により、生徒に対する処分は行われなかった。大阪の教育を変えるときは北野から始められる。軍国主義化の田村校長もしかり。勤評闘争も高教組の重要拠点は北野であり、府教委の守るべき拠点も北野である。校長も教職員も生徒も不運であった。
大学学園紛争の影響の中で
昭和43年度より48年度までは自治会執行部は成立していない。43年日大全共闘、44年東大紛争と一連の学園民主化闘争のあおりを受けて一部生徒の動きが44年文化祭時におきた。
この年の文化祭の講演をめぐって学校側と対立した一部生徒は、井上清京大教授を呼び、講演させる様要求、3名が廊下でハンストに入った。ハンストは間もなく鎮静した。浦野博夫校長は直接井上教授に会い、文化祭には行かない旨の返事をとり、後日改めて生徒諸君の要望もあるので、正式に学校より講演依頼をした。講演は質疑応答の時間を用意して行われた。教授の講演は「私はアジテーターではありません」との第一声から、日大闘争、東大闘争の経過を述べられた様だが、質疑応答に見られたように、北野生の反応は冷静で、冷めたものであった。
自治会執行部の成立していない中での事件であり、以後、政治色を嫌ってか、執行部の候補があっても不信任され、45年以後は候補も出なかった。
自治会の現状
昭和53年度、54年度は、執行部は成立せず、またもや空白期間となった。議会の委員による北野年誌は、自治会の危機を訴え、生徒の関心を求め続けている。
昭和54年度後期より執行部は復活するが、平成元年度までは前後期同じ執行部によって支えられている。平成元年度は木村敏子会長(103期)と、始めて女性会長が誕生した。
平成2年以後は現在に至るまで前期執行部は不成立、後期のみ成立している。この間、生徒の要求を汲み上げるべく、アンケートや投書箱の設置を試みるが、生徒の反応は薄い。
運動部室の電灯設置の要求は10年以上続けられているが、火災予防の観点から実現されておらず、自治会も諦めているようである。女性からの要求である吊りバンドの使用をとり上げた執行部もあったが、許可されていない。服装についても30年代に比べてかえって厳しそうである。
以上、北野自治会の歴史の一部を記したが、誤解、誤認の点はお許し頂きたい。