一、北野中学校
一流のホテルかととまどう玄関である。受付の窓でおそるおそる尋ねた。
「校長さんはおいででしょうか。」
「はあ、いてはります。」
ぺらペらと答えてくれた。はてわからない。どこかへ行ってるというのであろうか。それともいるのであろうか。
「おられるのでしょうか。」
重ねて尋ねた。
「はあ、いてはります。」
同じ返事がかえって来た。その様子から判断すると、どうもおるということらしい。
「ちょっと、お目にかかりたいんですが。」
「どないな用件だっしゃろ。」
「名古屋から来たとお伝え願いたいんですが」
と名刺を渡すと、
「ああ、村上先生だっか。どうぞお通りください。待ってはります。」
と気持よく案内してくれる。中学校にもこんな豪華なものがあるのか、鉄筋の上に化粧煉瓦を積み、校長室の腰板は黒といぶし銀の大きな元禄模様である。どっしりとした幾何学的な構成がとても気にいった。蒸気暖房でぽかぽか暖かい。昨日までは窓硝子もろくにない木造の掘っ立て小屋に住んでいた野武士が、今日は二十世紀の先端を行く文明国に移住したのだ。見る物が皆珍しいのできょときょとしてると、
「立派でしょう。」
と言われる。
「僕のような野人に勤まりますかなあ。立派過ぎますねえ。スチームで暖めるなんてもったいないです」
「暖房設備は保護者会の寄付でできたんですよ。府ではやってくれないから。」
「でしょうな。日本の中学ではここだけではないですか。」
「東京はどうですか。関西ではここだけのようです。もっとも最近は他にも出来たかも知れないがね。大阪の実業家からみればこんな金ぐらいはねえ、問題ではないよねい
といろいろと大阪と名古屋の相違を話される。
「大阪は月給取を能なしとみくびるけれどね、ひとつ良いことがあるです。それは何かと言うと、教育のことはわからないから、先生にまかすというです。金は出すから宜しく頼むという事だねえ。」
「でも教育者を尊敬してるのとは違うのでしょう。やっぱり描の尻っぽ位に考えてるのでないですか。」
「そりゃ君。月給で判断するからね。尊敬はしないと言うたがよいかも知れないね。うちの番頭の三分の一しか月給もろうとらんとなるとねえ。そりゃ番頭の方が偉いと思うかも知れませんな。」
どれひとつ学校を見ますか。と先に立って案内される。玄関から真直ぐに階段を上った所に講堂がある。階段式に後の方が高くなっていて、天井はかまぼこ型、薄緑色の壁がしっとりと落つきを与える。声のとおりもよくて話をするのが楽だそうだ。
三階の教室を案内され机を見る。
「これはねえ君。高くしたり低くしたり、自由に調節出来るですよ。身長によって自分に適するようにする訳です。ゆくゆくは全部をこれにするつもりですがね。一ペんには難かしいのでね。保護者会でやるのだから・・そりゃ君、府はやってくれないからね。」
「こりゃ坊ちゃん学校ですねえ。」
「でもねえ君、後からできる程よくなるからね。やがてこの位のものが次々と出来るようになると思うね。」
「大阪ですなあ。経済の都ですからなあ。」
(当時は大阪は日本の経済の中心地であった。)
「これをご覧。」
と案内きれたのは温室である。
「これは皆熱帯植物ですよ。何と言うのかね。何べん聞いても名前を忘れて仕方がないんだが・・。」
「生徒がやるですか。」
「先生に熱心な人があってね。それで生徒もついて来るようです。やっぱり君、教育は先生の熱意だねえ。」
「でも冬の間何を使って温めるですか。」
「練炭の大きいのを使うようです。一晩あれ一つで十分のようですよ。」
全く驚いた。頭を切りかえないといかんわい。ザンバ流にどなったら生徒は気絶するかも知れない。一中では野武士で過ごして来たが、ここではネクタイにも気をつけて、紳士たることを生活原理にしなければ勤まるまい。どうやら窮屈な生活が待ち受けてるようだ。
家は学校の西二キロばかりの所に見つけて貰った。二階建の二軒長屋、新築である。
翌朝校庭で新任式が行なわれた。校庭といったって猫の額ほどの小庭である。千坪しかないという。ここに千四百五十名の生徒が集まるのである。一中でのデビューは友人の洋服で行ったが、ここではモーニングを着て来なさいとの校長の注文である。細いズボンの時代物で折り返しもないのが気になったがやむを得ぬ。
校長の紹介の後で朝礼台に立った。粛としてせき払い一つない。針金でぴんと張った帽子をかむり、脚には真白のボタン式海軍型ゲートルをはいている。山賊型の一中生とは見るからに大違いだ。一中では毎日毎日が戦場に臨む心境で、気合をぬくと授業にならなかったが、ここでは心豊かに丸腰でも大丈夫だろうと想像された。
「どうだね、感想は?」
と式を終わって校長がきくので、
「全然違いますね、山中とは。おとなしいですなあ。」
と言うと、
「ここでは北中生としての気品を保てというのがモットーです。ゼントルマンを育成するというのが生徒を指導する原理となってるようです。そのつもりでやってください。やり甲斐のある所ですよ。」
と力をこめて語られるのであった。
サンバも三十五オになったので、神様がこんな所へまわしてくれたのであろう。賢明な天の配剤である。
翌日授業開始、まず四年生だ。からだは大きいが猫のようにおとなしい。まるで一中の二年生でもやっている感じである。質問でも丁寧だ。すっかり警戒心を解いて午後の授業に出ると三年二組であるべき筈の教室に三組の表札がかかっている。はて間違えたかなと後返りしてみるとそこには一組の札がかかっている。
此所だけいれかわっているのである。
入口で不思議だ。一組から順番になっている筈なのに組名が「やったな」と気がついた。また元の室へ引きかえして
「ここは二組でないか。」
「そうです。」
教壇に上がるや否や
「誰が表札をいれかえた。」と全員をなめまわしたら、
「はい僕です。」
と神妙に申し出た奴がある。からだは大きいが頭脳の回転はあまりよさそうには見えぬ。
「馬鹿者!」
と怒鳴りつけた。サンバよりか遥かにソフトのつもりであったが、それでも北中では前代未聞の凄味があったらしい。皆が顔色をかえて静まりかえっているので、
「正直に申し出た点はよろしい。今後やったら承知しないぞ。」
とちょっぴりおどしをかけてけりにしておいた。おとなしいたって油断はならぬ。
ここでは出席簿は身長順になっている。見ただけでは成績はわからない。僕は問答式の授業をやるのでおよその実力は勘で掴むことができるが一中と大差はないようである。
ただ言葉が違う。あのよう、先生あんまり早やあで、もっとゆっくりやってちょうという名古屋弁から、先生そない早う進みはったらわかれへんよってに、もっとゆっくりやっておくんなはれになった。名古屋のごつごつした語調から鰻のようにぬめぬめしたものに激変したのである。野武士から町人の世界にとぴこんだのだからやむを得ない。
しばらくすると僕の家の隣りに北中の三年生の子を持つ未亡人が転宅して来た。この子は柄が小さいので一年生かと見まちがったが、根っからの浪速っ子で、人なつっこく、大阪弁で尋ねもしないことをとどめもなく話してくれる。
それによると、ここの先生のニックネームは一中と違って皆おだやかで、気品がある。ヒョロ松やドテカボチャやメカケのようなのはない。
地理の先生はチリヤンと呼ぶし、土屋先生はタビヤンと命名されている、土屋足袋の引用らしい。丸顔の愛嬌のある先生は小芋で、小声でねちねち話す先生はネコという。少し柄の落ちるのでガマというのがあったが、これ位が底辺であるから文明国だ。教練の先生にマントクというのがあるが、これは万年特務曹長の意味なんだそうである。この人あたり一中であったらクマソになったに違いない。
人相から来たどぎついのがないのはいささか淋しいが、お上品なので他人の前で話しても気がひけない。
僕にもやがて名前がついた。牧師というのである。その由来は、北中ではチョークの粉がふりかかるのを除くために先生達がガウンを着てるので、僕もそれにならって黒いアルパカのガウンを着用したのであった。そのスタイルが牧師らしいというのである。サンバから牧師へ、正に野武士から文化人への豹変である。心境もどうやら牧師調に変わってきた。