福田博造先生
それで40年代に全体的に学力が上がった時…担任もったクラスに新井君がいたんや、新井将敬君な。78期の生徒がたまたまそうやったンか知らんけど…スパルタ教育を望んでたようなフシがあったような気がするワ。あと、ボクが担任した生徒のなかには森恒夫君もおった、全学連の。
おとなしい奴やってんで。なんか…この2人には共通するところがあってね。自分自身に対して非常な期待感があるんやな。向上心は人一倍強かったように思う。「これではいかん、これではいかん…」あまりにも高い理想があって、焦ってる感じもしたなあ。今はそうでもないけど…当時は大学に行くこと自体、少なかった時代やし、親が大学に行ってへんから…という期待感がすごかったんやな。
ボクらは戦争中の人間やから、人殺すのもいかんけど自分殺すのもいかん…命は大切にする、というのが染み付いてる。せやけど、30年代には自殺する子が多かった時があってね。あまりにも自分に対する要求が過酷やと敗北者になってしまうンやな。思い留まらしたコトもあったんやけど…子供が死んだときの残された親の顔いうのは見れんで。これがまあ…北野におって一番つらいことやった。50年代以降はなくなったけどなあ。
あのねえ。今は物理とる子が少ないンやね。最近は物理も2科目に別れてんねけど…高校によったらクラスが成立せえへんいうトコもあるみたいや。そら、数学でも社会でも、ものすごい種類になったからね。
理系というのは…昭和40年のはじめから50年のはじめまでが「技術革新」の時代で…その頃は全国に工学部がぎょうさんでけた。工学部へ行ったら就職も良かった…いう時代があった。
バブルの後またちょっと増えてきたかも知れん。せやけど、一時は「経済、商科でないと…理系はエラい目してからに給料安うて損や。銀行や商社行ったら、もう一倍半もの給料貰える」言うてね。理学部の「数学」出ても、金融機関いったりしてたから…「同じ銀行いくんやったら経済か法科のほうがええ」言うてね。ボクらの高校卒業の時なんか、東大の法科は無試験やったで。入ったら戦争行かんとアカンかってんけどね(笑)。
日本は「行く」言うたら、みな同じ方向に行くんやからな…。『北野100年史』見てみたら、昭和のはじめは国家公務員と医者が多かってんなぁ。ある時期…歯学部も多かってんけど、開業するのに随分金かかるいうて、また減ってきたりしてね。理系志望者が多なると物理のクラスも増えるんやけど…北野いうのは割とずっと4:6くらいやな。
ボクはね。浪高で理系の勉強したときに「物理学」に非常に感銘を受けたんや。ほら、物がこう落ちるでしょ。落ちるいうのは分かるけど、地球が引っ張ってるかどうかなんて分かれへん。ニュートンいうのは「これは、引力が引っ張ってんねん」という仮説を立てたんやね。
たとえば裁判してても「指紋が出た、血痕がでた」というのはあくまで事実で、「こいつが犯人や」いうのは…見てた人おらへんねんから推論やね。どんなに確からしい思うてもあくまで仮説やね。物理学いうのは、そういう推論と事実とをハッキリ区別することから始まるンやな。
そやから…このガリレオ、ニュートンの考え方は理系だけやなしに、文系の人にも「こんな考え方もある」いうのを知っててもらいたい。このことを、ボク…授業で大切にしてたんや。
近代自然科学いうのは「誰にでも確認できる事実から導き出してきた考え」が間違ってるかも知れん…ということを頭の片隅に置いとかなアカンということやないかな思てんねん。決して「物理の知識」であつてはならん、「物理学」でなくてはならない…と思っておったねえ。
文化祭の時に…夜、見回りにいったら悪いヤツおってなあ。「もう夜遅いから帰れ」言うたら、裏に住んどった奴のとこに集まって、0時過ぎたらまた来よるんや。「(定時制の迷惑にならんように…)早よ帰らなアカン言われても…朝、早よ来たらアカンとは言われてません」言うたりしてな(笑)。
ホバークラフト作るいうてオートバイのエンジン拾てきた奴もおったなぁ。当時のエンジンなんて…今のように性能ええコトないし、潰れかけ半分のヤツを…拾ってきたか、都島あたりのスクラップ屋で貰てきて、分解して、掃除して、使てるさかい…ま〜音は喧しいし、そこらじゅう埃だらけにして、あっちこっちでよう怒られてなあ。
スカートいうの作って、扇風機みたいなファンで浮き上がらそうとするねんけど…音と風ばっかりやったなあ。プワーと浮くトコまでは行くねんけど…とても上に人は乗せられへんだ。それよりも…校庭持っていって怒られ、裏庭持っていって怒られ、持っていった先々で怒られて(笑)。面白かったけどねえ。
物理研究部では無線の技術やったこともあるし、光通信みたいなコトをやったこともあるなぁ。蛍光灯の高周波点灯とか、放送部で故障した機械直したり…。ちょうど真空管の時代からトランジスタの時代に変わる頃でね。実際にモノを作ったり壊したりいうのんは大事やで。今は修理いうてもセットで中身ゴソっと入れ代えたら終まいやもんなあ。
ま〜顧問してて役に立たん事もあったけど、部員がみな楽しそうにしてたから良かったンやろな。昔は、塾なんか行ってる奴一人もおれへなんだ気がするんや。近ごろは塾よう行くわな。高校でやで。そら、学校での繋がり…無くなるわな。
当時はゴンタクレや何や言うてたけどね…本質的に「悪い」いうのと「ゴンタ」いうのとは違うんや。最近の「悪い」いうのんは…ともかく、見てみんふりしたらアカンわ。学校は大事やからな。小学校や中学校がしっかりしてくれなんだら日本は潰れてまいよるで。銀行の一つや二つ潰れても、ぎょうさんあんねから…。せやけど学校はあかんで。
北野は戦後は塀も無くって…(後で塀は作ったけど)…ま〜自由やったねえ。ある範囲においては、ものすごう自由やった。ただしね。それをはみ出しよった者には…これまたエライ厳しかったんやで。物盗ったり、人怪我さしたり…言うコト聞かんかったモンには、そら厳しかったで。改心したら水に流すんやけど…でも、ある枠を超した者に対しては非常に厳しかった。
今は、些細なコトえらい厳しゅう言う思たら、見逃したらアカンこと見逃してたりしてなあ。悪戯もアトで笑い話になるようなンしてくれなあかんわ。よう中学の先生が「生徒叩いたら自分の首が飛ぶ」言うけどね…首が飛ぶいうてもイカンいうことは断固としてイカン。「ココを越えたらアカン」いうトコは命張ってでも止めたらなアカンのや。
聞き手●近藤喜治(55期)、上田博唯(77期)、石倉秀敏(84期)、
島谷宏子(91期)、谷 卓司(98期)
収 録●Apr.5,1998
(豊中市服部本町のお宅にて)