僕はマンガ家という名前で一応通っておりますが、もともとは虫が非常に好きでして、昆虫学者になりたいと中学、高校の頃は思っておりました。高校を出まして農事試験場か何かに入ったら昆虫の研究もできるだろうと思ったので虫ばかり集めていたわけです。ところが、幸か不幸か医者になってしまいました。
ちょうど戦争たけなわの頃でありまして医者が非常に足りない。特に軍医が足りないんですね。どんどん日本が南の方へ転戦している頃ですから。兵隊さんはたくさんいても軍医がいない。したがって軍医を粗製濫造に養成して送り出す…猫も杓子も全部軍医にさせられてしまったんです(笑)。そんな時に虫とか野菜を研究しているなんて人間がおりましたら「おまえ、医者になれ」と言われてすぐ医者にさせられてしまう。したがって、僕も仕方がないので医者の学校へ入ったわけです。
ところが、僕という人間は非常に気が弱いんです。昔から体格が小さいのでいじめられてばっかりいた。上級生からもいじめられましたし、下級生にまでいじめられて泣かされるわけです。弟にも散々泣かされる。それで家へ帰って来ますと、おふくろが「お帰りなさい」と言うかわりに「今日は何回泣かされたの」と聞くわけです。すると、僕がこうやって指を折って数えるんですね。それくらい弱かったのです。
したがって、まず血が嫌いなんです。血を見るともう脳貧血を起こして卒倒する。自分の鼻血を見ても卒倒するのです。今は、まあドバーッと血を描いておりますが、これは描くんだから自由であって、しかも赤い血を描くんじゃなくって、墨かなんかで黒い血を描くんだからこれはもう簡単なんです。実際には血が怖いんです。それが医者の勉強をさせられてしまったんだから、こんなん上手くいきっこないんです。
一番最初に…これは医者の学校に入ると誰でもやらされるんですが…解剖をやらされるんですね。当時、ちょうど戦争で家を焼かれたり、空襲なんかで死んだり、行き倒れなどもありましたから、どこの誰か分からないような死骸が保存してあったんです。一ケ月くらい経った死骸が、いやな話だけど、ホルマリンの中にプカプカ浮いているんですね。それを引き揚げてズラーッと並べてあるんです。これが入ったばかりの学生5人にひとつぐらいの割合で死体がいきわたるんです。それをメスをふるって解剖するわけです。
何分にも人体のことは何も知らない頃に死体が出てまいりまして、それを解剖するのですから、これはもう満足に切れる試しはない。とにかく切れるところはみんな切っているのです。そうすると、だんだん人間の形がしなくなってきまして、肉の塊みたいなものがいっぱい置いてあるのです。そうなってくると怖くなくなるんですね。第一、非常に古い死体でありますから血が固まっておりまして…(こういう話をするとまずいかな。皆さん食事の後だと思うんで困ると思うんですが)…非常に人間らしさがなくなってきまして、例えば脳髄などはホルマリンに長いこと浸けてありますから、こんなに小さく固まってしまってます。そうなってくると、もう「物体」としてどんどん切り刻んでいくわけですね。それくらい残忍なことをやっておりました。
ところがそれは良かったのですが、ホルマリンの匂いというか解剖室の匂いが体にしみ込んでしまいまして、その匂いが風呂に入っても寝床の中に入ってもついてまわるのです。そうすると、夜遅くなりましてからも夢を見るのです。メスを持った死体が生き返って私を追いかけてくるような…そういう夢ばっかり見るのです。非常にうなされます。
それくらい気が小さい。とても医者には向かない男だったのです。しょうがないんで、階段教室の一番上に上がりまして…ちょうど一番上に上がりますと、黒板のところにいる教授からは机の上の物が全然見えないんですね。背伸びして見上げなければ見えない。何が載っているかわかりません。それでノートではない紙=原稿用紙を広げまして、マンガを一生懸命描いていたのです。そのうちに段々と「手塚はちっとも勉強しないでマンガばかり描いてる」ということが知られてしまいました。
私はその頃やっとマンガの仕事が一人前にできるようになって、どうにか、あっちこっちから仕事の依頼がくるようになっていました。そうすると仕事が段々忙しくなるもんですから、病院の宿直室なんかへ行きまして晩にコッソリとマンガを描いている。勿論、患者さんなんか放ったらかしで描いているわけです。
そのうちに忙しくなりますと、ケシゴムなんかで消すのに「看護婦、お前ちょっと来い」と言って看護婦を部屋へ引きずり込みまして、看護婦は「何をされるんか」と、びっくりして来るわけです。そうしたら消しゴムで一生懸命消させるんです。終いにもう、締め切りに間に合わなくなりまして、患者を診ながら案を考えているわけです。診察しながら頭は全然別のところにあるのです。患者にとったらこんな不安なことはないわけですね(笑)。
ポカァ〜ンと横のほうを見ながら医者の卵が診察しているわけです。カルテが前のほうにおいてあって、患者を診ながらそこに書き込むわけですが「アッ、これは良い案ができた」と思ったら、すぐ、そのカルテにマンガを描いちゃう。教授が時々見回ってきますから、カルテをパッと裏返して隠しながら、いかにも診察しているように診ているわけです。たまたま非常に面白い顔をした患者が来ると「あぁ、これは面白そうだ」とカルテに似顔絵を描く。そのような事がありまして、とうとう、教授に呼び出されてしまったわけです。
「手塚君、君にはもうかなわん。頼むから医者にならんでくれ。君が医者になったら必ず2、3人は人殺しをするに違いない。そのような事になったら日本のために良くないから…学校は出してやるから医者にはならないでくれ」と頼まれまして(笑)。教授に頼まれるんだからそうしてやろう…そういうことで、どうにか学校は出ました。出してくれたお礼に教授の似顔絵を描いてあげましたら、たいへん喜ばれました。その教授が別の学校へ転勤された時にも、たまたまその学校について行きまして、そこの解剖研究室に入りました。そうしてどうにか医者の肩書をもらったわけです。肩書はもらいましたが、根っから医者になる気はありません。したがって、それから東京へ出て参りましてマンガ家になったわけです。