われら六稜人【第44回】平和構築の現場で
第4幕
NATOによるユーゴ空爆
かなり話がさかのぼってしまいましたので、現代へ戻したいと思いますが、冷戦崩壊後、旧ユーゴを構成していた共和国、例えばスロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどが独立してゆきました。ご存じの通り、多くの血が流されました。コソボは共和国ではなくセルビアの一自治州ということもあって、他の共和国のようには事が進まず、独立運動は行き詰まっていました。独立運動の指導者であったイブラヒム・ルゴバ氏は非暴力を掲げ、コソボのガンジーと呼ばれてアルバニア系住民から大きな支持を得ていました。武力によって独立を勝ち取ろうとするコソボ解放軍という武装組織も生まれましたが民心を掴むには至らず、米国政府にもテロリスト集団として認定されていました。
状況が大きく動き始めたのは、コソボ解放軍をテロ組織として見なすことを米国が取りやめ、公然と支援し始めた頃からです。西側の思惑通りには動かない当時のセルビア大統領ミロシェビッチをダシに、何か大きなことが準備され始めたという予感が走りました。当時の米大統領クリントンは色々な問題で国内的に非常に厳しい状況に置かれていましたので、国内世論の矛先をかわしたり、議会対策をしたりする上でインパクトのあるイベントを必要としていました。それからもうひとつ重要な背景は、冷戦終結でお役御免となっていたNATOが、自らの新たな役割を求めて彷徨っていたタイミングであったこともあります。そのような状況下で、ユーゴに対するNATOの空爆は着々と準備が進められ、後は「きっかけ」を待つのみとなっていました。
「きっかけ」、つまりはペテンですが、はネットなどで見ていただければと思いますが、1999年3月24日、NATOは国連安保理の決議を経ないまま、ユーゴスラビア全土を対象に空爆を開始しました。空爆は78日間続き、民間人にも多くの犠牲者がでました。戦う相手が「上空」にしかいないユーゴスラビア側の軍や民兵組織はコソボの「地上」で態度を硬化させ、状況を察したアルバニア系住民は隣国のアルバニアやマケドニアへこぞって脱出し、難民化しました。その数は70万から80万人に達しました。
Update : Jul.16,2010