高校教師時代 |
教師になったのは大学出てすぐです。大学卒業が昭和25年。大学院に進んだけど、あのころは単位制とかないしね。すぐ兵庫県の三田学園高校の教師になりました。2年いただけやけど(このあいだ同窓会をやってくれて、行ってみたらどっちが恩師かわからへん…笑)、校長が受験学校にするいう方針出して「しっかりやってくれ」と檄を飛ばした後をついていって「研究を主体にしたいから辞めさせてくれ」と言うたら、びっくりしよった。
それから宝塚の小林(おばやし)聖心の高校に行って、大学の方にも非常勤講師で行ってまして、翌年、大学院修了と同時に大学(聖心女子大小林分校)の専任になりました。聖心には8年いました。そのころは小林にも聖心女子大があったんです、2年制の。あれはあの時期だからできたんやけど、上に行きたかったら東京に行く、小林で終わったら短大卒です。そういうユニークなことやってたんです。
美智子皇后は34年にご成婚でしょ。こっちから東京の聖心に行ったのが3年生で一緒になって、正田美智子さんが学生のプレジデントになったとき、バイス・プレジデントになったのが、僕の教え子です。
昭和35年、33歳で関西大学に行きまして、関大には37年いました。その間、いろいろな役職につきました。やってないのは学長と学生部長と就職部長の3つだけです。あとはみんなやった。文学部長も図書館長も。
役職やっててよく研究時間がもてるな、どうしてるのかとある人に言われた時、こう答えたんです、「夜、電話で根回しをしない」とね。これが僕の時間を作る要諦です。もっとも、それは副部長とか代わりにしてくれる人がおったから言えるのですよ。でも、とにかく僕自身は絶対やらない。根回しをやったら、結局会議以上の時間いりますのや。ですから、僕は会議主義。その場でやったら終わり、あと引かんように、いうことです。それに、根回ししたら、言うこと聞いてもろたいうマイナスも残りますから。
絶対重要な会議は徹底的にやる。そうすると途中で向こうが疲れはる。疲れた時にパッとお茶をだすとかね、昼飯出すとかね、それで飯食って、次に進むと、スッと行くね。みんな腹減ったら腹立てよるんや。そしたら反対しよる。飯食わしたり茶飲ましたりして、血が胃へ行ってるときに議案出したら通る。これ、オフレコやな(笑)。
どうやったら時間作れるか、もう一つは、だいたい会議やいうても朝10時からでしょ。9時から10時までが自分の時間。正確にいうと9時45分になったら会議の準備があるから、それまでやけど、それの積み重ねですね。関大の文学部長してた時やったかな、木簡の書体をずっと並べて、これとこれがくっつかんかと、紙にコピーとって切ってやってたんですが、教授室のおばさんがお茶もってきて見てはった。「部長、えらいことやってはるな。わてもわかったらてっとうたげるのにな」言いはってね(笑)。
海外の大学で教えたこともあります。プリンストンにハーフセメスターいました。ここではドクターの口頭試問にも立ち会いました。ケンブリッジも半年くらいかな。北京大学の客員教授は今もなってます。中国では行ったところはみんなくれてます。名誉称号みたいなもんやな。中国社会科学院歴史研究所の客座研究員とかは資料見せてもらうときに便利やね。もちろん、実際に中国で教えたこともあります。
日本で授業終わったあと、さっと出てきて黒板消してくれるのは中国からの留学生。中国では先生に消させへん。まじめですね、中国の学生さんは。プリンストンはゼミでしたからね。少人数で共同研究をやって、そのとき始めから最後まで熱心やったのが、台北出身でプリンストンでドクターとって今研究者になってます。