小学校入学の頃 |
北野の百周年記念文集に頼まれて思い出を書いたことがありますが、注文がついてね、北野に行ってよかったかという質問でね、しょうもないこと聞くな、思いましたね(笑)。だって、それ以外、オレの人生はないわけでしょ。選択肢が他にあったわけではないし、やり直しがきかないから。よそから転校してきたら別ですけど、良し悪しを比較できないもの。
北野の授業ではやっぱり歴史が好きやった。それから英語ね、英語はたたきこまれました。茶ビンいうあだ名の先生がいて、名前は何やったかなあ、この人怖いねんけどね、徹底的に文法をたたきこみはった。これは生きてるよ。関係代名詞はこうやないといかんとか、そこで完全にたたきこまれてるから、あとあとよかったと思ったことが多いです。
クラブは剣道部でした。剣道は私にとってよかったですね。3歳で父を亡くして母親育ちだったもんだから、そのせいか物事の決断力が余りなかったんですが、剣道はここいうチャンスに打ち込むでしょ。あれが身に付きました。冬の寒稽古には二番か三番かの早い電車で行きました。一年のときは、寒稽古のあと、授業までの間におかゆが出ました。七草がゆみたいな菜っぱの入ってるのがね。二年生あたりでは出なくなりましたが、食糧統制のせいでしょうね。
それから、歴史か美術史か、クラブの名前を忘れたけど、一年上に川原という詳しいのがいて、それにゾロゾロくっついて行って、焼ける前の法隆寺の金堂を見ました。中学3年の時に。それがね、暗くてね、地元の子供らが手の届く限りひっかいた痕が壁についてる。きたないなあと思ってね、これを川原が言うみたいにきれいやと思うことができんとあかんのやったら、僕はあかんというわけで辞めました。今やったら汚いのが当たり前やとわかるんやけどね。
旧制高等学校時代 |
大学時代、京都の南禅寺福地町に下宿してたら、その下宿の向かいが稲畑はん(56期稲畑勝雄同窓会長、われら六稜人【第31回】所収)のお宅やった。稲畑さんは1年上でしたんやけど、北野では知らなかったんです。たまたま電話を借りに行ったとき、僕が北野のバックルをしてたのが見えて、それで、あんた北野かいないうことで。あのころ、北野の校章入ったバックル売ってたんです。今なら学校グッズいうのかな、あれはいいですよ。うちの大学もスポーツタオルとかマグカップとか作ってますけど、北野も作りはったらええんや。