大阪コピーライターズクラブ新人賞を受賞(1965) |
7カ月ぐらい養成期間があって、毎月講義の最終週に課題が出るんです。これを提出して一番トップの人に優秀賞とか決めはるんですね。そんな中で私、卒業時にトータルで最優秀賞をもらったんですよ。アホなことばっかし考える子やったからね(笑)。
課題は、例えば「胃と肝臓の両方に効くという薬の15秒テレビコマーシャルを作れ」とかね。そういうのが出た。テレビコマーシャルあり、ラジオCMあり、新聞広告あり、雑誌広告あり。いろいろ勉強になった。それでたまたま優秀賞をもらったら、就職斡旋というか、求人が三社あったんです。一つが広告代理店で、後二つがメーカー。
考えたんですけどね…メーカーの宣伝部に入ったら、そこの商品ばっかりやらなあかんでしょ。私、飽きるんちゃうかな…と思って(笑)。代理店やったらいろんな仕事できるから、そっちのほうがええかなあと思ってね。それで行ったんですよ、大阪読売広告に。そしたら向こうは即戦力になる人材が欲しかったんですね。私、7カ月間の研修を受けただけですからね。とても即戦力の自信なんかないでしょ。それで「もうちょっと勉強して、御社がまた募集しはった時に実力がついてたら受けに来ます」言うて去ったんですよ。
たまたま知り合いの小さな編集スタジオから「手伝いに来ないか」と声がかかって、しばらく勤務しました。朝早く行って、デザイナーの筆洗…白い瀬戸物製の、筆を洗う小バケツやね…あれを全部洗ろうてね。出勤の時間になったらみんながすぐ仕事できるように。そんなことやりながら。
そしたら、また大阪読広が社員募集しはったから「もう、ええやろう。一年、現場踏んできたし」思って(笑)。受けに行ったら覚えてはったんですよ。「あんた、1年前うちの会社蹴ったやんか」言われてね(笑)。「蹴ったん違います。こうこうです」言うて説明して…そしたらえらい気に入ってくれはってね。入れてくれたんです。
そこで半年ほど頑張ってやってたら、ある日、『宣伝会議』の養成講座の時に講師で来てはった電通のマーケティング局の局次長さんから電話があって「ウチに欠員ができたけれど、あんた受けてみるか?」言われたんです。それで電通を受けたら、幸運にも入れたんですよ。それが30歳の時でした。