まえ 初めに戻る つぎ われら六稜人【第40回】思えばコピーライターの走り
     
    同僚のTさんと
    第4章
    (今だから言える…)
    つばめガール
    こぼればなし




      4人は各々仕事の分担が決まっていて、8号車の担当が車内アナウンス係。確か名古屋駅で蒸気機関車と電気機関車をチェンジしましたから「蒸気機関車の付け替えのため5分間停車いたします」そういう車内放送をしました。

      面白いのは9号車の担当で電灯のスイッチ係。今だったら昼間でも電灯を点け放しで走っているでしょ。その頃ね、トンネル入る前に電灯を点けて、出たら消すんですよ。9号車にその制御盤があって、全車一斉に点けたり消したりできるようになっていたんです。ちょうど点けようと思っている時に間が悪くお客さんに声をかけられたりしてね(笑)。応対してる間にトンネルに入っちゃって、真っ暗け。後でものすごく怒られましたよ。
      あれね、時間で憶えてたらあかんのです。景色を見て、この辺りへ来たら電灯を点けるというのを憶えてなあかんのですよ。私なんか大雑把で早めに点けておくでしょ。そしたら意地の悪い車掌がおってね。節約家というか。知らん間に消してはんの。「もったいない」言うて。真っ暗なトンネルを走ってるとえらい長く感じるのよ(笑)。そんなこともありましたね。

      三等車のお客さんから「客室乗務員が三等車に全然来ないのはケシカラン」みたいな苦情があってね。一日に1回か2回は三等車を歩いて、あんまり汚れてたらお掃除をするとかしましたけど(笑)。
      基本的に電報以外の用事はしません。特別二等車のお客さんが「お弁当買ってください」とか「お土産物でこういうのが欲しい」とか言わはったらね。数が多ければ紙に書き留めたりして、たとえば浜松のものが要るとなると、名古屋くらいで連絡しておくんです。そしたら浜松で指定した車両の前に持ってきてくれてはるの。また「何時に着く。迎え頼む」って電報も頼まれる。駅ごとにそういう仕事がありました。

       
      北野の同級生が大学の野球部の遠征とかで乗ってはることもありました。デッキでしゃべっていたら他の人が次から次から覗きに来はるんです。あるいは京都大学へ行ってた友人ですけど、わざわざ通学に利用するんですよ、特急つばめを。大阪から乗ってきて京都で降りはる。あかんのよ、ほんまは。特急券代を貰わなあかんのですけど、内緒でね…。そういうこともありましたね。

      車両の横に「つばめ」と書いたプレートあるでしょ。あれをコレクションしてる人がいてね。「欲しい」と頼まれて、しょうがないから自分の車両のをこっそりあげるんです。私が紛失したことになるんで、帰ったら始末書を書く。給料から天引きやったら断るけど、始末書だけだったらええかと思ってね(笑)。
      展望車の丸い大きなプレートあるでしょ、つばめのマークの。さすがにあれを欲しいと言われた時は断りましたよ。あれは始末書では済めへんやろうし。だいいち持って帰るのにバッグにも入らへんしね(笑)。

      こんなこともありました。客席とデッキの間に小さな荷物室があるんです。もちろん、駅で「手荷物」として正式に預かる分は前の荷物車のほうに乗せてますから。そうじゃなくて、ちょっとした荷物で網棚に乗せるには大きいようなものを預かってくださいと言って持って来はる。
      ある時、某社の会社員ですけど…南米に出張か調査に行った帰りに、その資料を一杯入れたトランクを車内で預かったんですね。そんなん預かり書も何も出しませんよ。それが忽然と無くなりましてん。着替えとかの入ったトランクだけはあって、その資料の入ってるのだけが無くなった。私、どないしよか思うてね。乙女心に「死んでお詫びせなあかんか」思うぐらいにね(笑)。家に帰って兄に相談したら「お前の命を取ろうとは言わへんやろ。そやから、そんなに心配せんでもええ」と言ってくれましたが。
      いろいろ手は尽くしたけど一向に出てこない。そしたら某社と国鉄とで裁判沙汰にまで発展してね。「うわー、えらいことなってきた」と思いましたよ。国鉄側は「二十歳そこそこの女の子に、そんな大事なもんを預かり書も取らへんで預ける方が間違ってる」という論理で来るんです。向こうも弁護士なんかと検討したんでしょうね。確実に某社の方が負けるやろ…いうことで、引っ込めはったんです。もう有耶無耶ですね。今でも北浜あたりを歩いていて某社の前を通る時は、何か身がすくむような感じがします(笑)。謝りに入ろうかな、とか(笑)。

      思い出すだけで楽しい「つばめガール」時代でしたが、廃止の方針が決まりました。乗務員にはオペレーターとか電話交換手とか…そういう職場斡旋があるというのは聞いていたんですけど、それもやっぱり嫌やし。結局、廃止になる1年ぐらい前に、昭和32年に辞めました。


    Update : Mar.23,2001