まえ 初めに戻る つぎ われら六稜人【第43回】メディアの人…報道の現場を歩んで
     映画『市民ケーン』より
    映画史における金字塔『市民ケーン』は
    新聞王ランドルフ・ハーストをモデルに
    オーソン・ウェルズが25歳の若さで発表
    した処女作である。
    (出典:American Experience/PBS)



    第2頁
    毎日新聞社入社




      僕は早くから新聞記者になろうと思ってたんですよ。新聞記者になるには外語に行ってなるというコースも割合あったんですね。ところが高等学校行ったものですから、大学卒業してからということになった。大学2年の時に毎日新聞に問い合わせしましてね、なんで朝日にしなかったのか、憶えていませんけど、大阪で新聞いうたらどっちかですよ。どっちにも北野の卒業生がたくさんいましてね。高等学校卒業だけで受験資格あるかと聞いたんですよ。そしたら旧制高専卒業者は資格があります、どうぞ来てくださいと言われた。僕は2年生のときに受けまして、成績がよかったんですよ。最終面接に行きまして、入りたかったら入れるけど、卒業したほうがええよと親切に言うてくれまして、それで入れてくれるもんや思ってまして、1年後に受けて入れてもらったんです。ですから、学校に行く気はさらさらなくて(笑)遊んどったんです。
      また、別の理由もあったんです。新聞社、これは毎日も朝日もそうだったんですが、卒業待たずに早く来てくれいう時期がありました。昭和27年秋、新聞社が支局の機能を充実させようとしたんです。それまでは共同通信社からの情報を買っていたのですが、共同通信の配信は受けない、自前で行くと三大紙が決めたんです。これは新聞界ではちょっと大きな事件でした。そのため、学生でもいいから働かせいうことで、大学は卒業できるんだったらすぐ来いいうことでね、たくさん採ったんです。北野では一年上の徳岡孝夫君は同じ愛日小学校の出で、今は評論で活躍(菊池寛賞受賞)していますが、彼もその時にすぐ高松支局に行かされました。ま、そんなことで、いろんなことがまともではなかった時代や思てください(笑)。

      新聞記者になりたいと思ったのは、子供のころからです。子供向きの偉人伝がありますね、ワシントンとかリンカーン、フーバーとか。それでアメリカの新聞王ハーストの伝記を読んでました。それと新聞読むのが好きでしたね。小学校の時もしょっちゅう新聞のことを言っていたと同級生が言うんです。新聞の論評をしとったんですかね(笑)。それでも、途中で軍人になろうと思うんですね。あの時代ですから。軍国少年ですよ。ところが軍隊はなくなりましたから、最初に戻って、ということでしょうかね。

      今はそんなんないですけど、昔は新聞社にも身分制があって、同じ大卒でも、朝日は練習生といいましたが、毎日は見習生いうのを大阪の編集局で10人採ったんです。で、それ以外の人たちは雇員ということで、見習生は3ヶ月で社員になるんですが、雇員は1年ぐらいかかるんですよ。これは差別やいうことで何年後かに組合の要求でなくなりました。それでみんな試用社員いうことになったんです。私のときはまだ見習生だったんですが、その10人のうち3人が北野でした。雇員で入ったのにも徳岡君ともう一人いましたね。営業にも見習生がいまして、6、7人のうち1人が北野中学でしたね。朝日も同じようだったでしょうね。
      読売が大阪で出たのが27年の11月でしたかね。私が仕事始めて1ヶ月後でした。読売は朝刊だけ出して月130円でね、半分ほどの値段ですからね、それで伸びたんです。僕は大阪社会部に配属されて10年ほどいました。その間に笹部新太郎さんとも知り合って…。それから『サンデー毎日』に行きました。


    つぎ Update : Jun.23,2001