今から思い出してみても、北野時代が人生の中で一番楽しい時期だったんじゃないかな。そんなに真面目に勉強した…というワケじゃないんだけど、大学が全くつまらなかったからね。特に最初の教養の2年間は。
だいたい北野の時すでに授業が自由にさぼれたからね。100時間くらい出なくても良かったでしょ。1/3までは自由に休めたから…だから「学校には行ってたけど授業には出ていない…」という時期が確かにあった。
テニス部は入って直ぐ辞めたけど、文化部には幾つも所属してた。一番のメインは化学研究部で、それから写真部、演劇部…あと生徒会もやってたな。演劇部といっても役者ではなくて大道具。舞台道具を作ってたンだ。「予算2,000円で、どうやって源氏物語の雰囲気を出すか?」とかね。柔道部から畳借りてきたりして。文化祭に講堂で発表するんだけど…文化祭といえば、前日に泊り込んで酒飲みながら作業したよね。化研で実験しながら展示物つくったりしてね。そういうことを真面目にこなしてると授業に出れるワケがないンだ。
そんなふうに北野で楽しい思いをして3年間ちっとも勉強しなかったから…大学受験は初めから浪人覚悟でした。案の定、浪人でしたが(笑)。その年の夏ぐらいからは一生懸命勉強しました。
ある時、ふと自分の人生を考える機会があって…「もう、勉強やめようか」と思ったコトがあります。一番なりたかったのは板前で…当時、帝国ホテルの日本料理のシェフが野球の三原監督の息子だった。彼の著作で天ぷらのトコロを見て…「これは、男が一生かけてやるものだ」と。だからホントは天ぷら屋になりたかったんだけど…これは諦めた。
親からは「国公立の、通える(学費の払える)ところに行ってくれ」と言われてて…9月頃までに「京大なら行けるかナ」という感触を得たんだ。友人の梶本が現役で先に入ってたから、彼の下宿の隣の部屋を8月頃から借りてね…非常にいい場所で吉田の交差点の角にある静かな家だった…それで、京大の土木に行く心算だった。下宿を借りて、それから願書を出して…親に内緒でやったんです。
親は僕に医者になって欲しかった。ウチの親父は電気関係の技術屋で、おふくろのほうが伊丹の医者の家系。親戚の子供たちがみんな医学部に行けなくて…「良太、京大に行くんやったら医学部に行ってくれ」と。結局それで、願書提出期限の最終日に阪大医学部に願書を出し直したんだ。8日目に北野に行って内申書を書き直してもらって…ようやくギリギリ間に合った。科目は京大のほうが「歴史」の1教科が多かった。でも、もともと歴史の勉強は11月からすればいい…とタカを括っていたんで、ちょうど阪大には都合が良かったンだよ(笑)。
高校を卒業する頃がちょうど60年安保の時代で、僕らはその走りで学生運動でもしようかと思ったんだけど…全学連か何かの一派が医学部の中にもいてね。でもそこは、あまり面白くなくて結局、行かなかった。それが良かったのかも知れないね。
次に何を考えたかというと研究所の助手になったんだ。最初はアルバイトで…どこかの科の標本作りを一日2時間ほどしていて、それがなかなか面白くて「今度は研究の手伝いさせて下さい」ということで頼んでみた。今でこそ半年単位で授業も無くて、研究の雰囲気を体験できるシステムというのがあるンですが…その当時はそこまではなかったけれど、自分の責任で真面目にしていれば研究員と同じ扱いで研究させてくれるシステムはあった。
それで医学部の6年間の内、3年生からは阪大病院の隣にあった微生物病研究所に通うコトになった。そこで免疫学の研究を始めたのです。朝8時半から夜中の11時位まで…日夜ずっーと研究の毎日。時々、出席を採る講義があるでしょ。その時だけ授業に出て…それでも出席だけとったらまたスグ帰ってきてね。だから全然、授業は出ていない。
最後の1年半くらいは実習があって…午前中だけだったんで、さすがにそれは出たけれども…。夏休みは無し、正月も3が日だけ。北野時代とまったく一緒で…のめり込むとトコトンやる質でね。
だから大学時代には麻雀もしたことがない。やる暇なかったからね。飲み歩いたこともない。酒を飲んでいなかったと言うわけではないんだけど…親父が酒好きで、小学校5年生くらいから既に飲んでたンだ。
こうして僕の運命が決まってしまった。