しょうがないんで、資格試験でも受けて国家公務員にでもなろう…当時は役人か官吏だ。それで高文を受けたんです、高等文官試験。それから外交官試験。この時は流石に勉強をしたけれども…官吏になって、外務省に入って、ああいうバカな戦争は二度としなくていいような、それこそ今で言うところの平和外交…「戦争のない世界のために努力する」のもいいんじゃないか、そう考えてね。
昭和21年当時といえば戦争直後でしょ。外務省なんか、アメリカの占領下だからないですよ。そもそも外交がないんです。ないのに外交官試験を受けたんだから、非常に奇特な人だったと言わなきゃいけない(笑)。
それで僕らの年に受かったのが6人。今でこそ40〜50人が毎年入省するけども、当時はたったの6人だった。だって外交がないんだからね。とる必要ないところへ5、6人がワッと入ったわけ。
当初はね、やっぱりパリとかジュネーブとかニューヨークとか…どんなとこか分かんないしね。ちょっと行ってみたくもなるでしょ。僕は試験をフランス語で受けたもんだから「パリに行きたいナ」とは常々思っていたンです。そうしたら本当にパリの勤務になって。これがある意味では後の僕の生涯を運命づける契機になったんだけど…。
基本的には国際社会の秩序を保っていくというのが根本だから、その約束事として「条約」とか「協定」それから「ガイドライン」なんかもその一つだけど…そういうものをよその国と交渉して日本国にとって損にならないように決めていく。これが基本です。
次にそれらを実施する段階でいろんなイザコザが起きるのを、相手の国と交渉してうまく収まるようにする。今ちょうどやってるでしょ。港湾問題…「日本の港でアメリカ船が不公正な扱いを受けとるから、日本船がアメリカに入るときには課徴金を取るぞ〜」とか言うような。ああいう話が多々あるわけです。
そりゃもう新聞に書かれてるのは氷山の一角中の一角みたいなものですから、いろんな複雑なことがたくさんあるンです。
こうしたいわゆる「外交」の仕事とは別に、先日のペルーの人質事件でもあったように、外国に行っている日本人の利益を守るという側面=「領事事務」というのがあります。
旅券、いわゆるパスポートを発行したり、相手の国から査証(ビザ)をもらった人の出国を認めることや、相手の国に入った日本人が何か困難に遭遇したり、悪いことをした/善いことをしたという時にいろいろ面倒を見る、というか世話をしたりする、そういう仕事があります。
外国で泥棒に遭って全部とられちゃった時にどうしましょう…こういう話はよくあるわけですよ。とくに言葉の通じない外国へ行くとね。そんな目につかない細々とした些細な仕事をいろいろやって、それがだんだん積み重なっていくと、まぁ最後にはどっかの国の大使になる、と。
そうすると今度は、東京の訓令に基づいて、日本国の名において、日本代表としていろいろ行動するわけです。それがまぁ…外交の外交たる所以だと思うんだけど。まあ大体そんなことやっとるわけです。
それでね。フランス人老夫婦の家に寄宿することにしたんです。朝から晩まで…大使館の勤務時間以外は、ずっと日本語の通じない世界に身を置くようにして…。
家の主人がたまたま昔から大の舞台好きで、僕が観劇に行くというと、あらかじめ見所を教えてくれたり、夜になると「書き取り」の試験をしてくれたりネ…。それはもう親身になってかわいがってくれたわけです。
そうこうするうちに「書き取り」の心算で始めた戯曲の翻訳もとうとう最後まで行っちゃって。完成したんですヨ。とある舞台監督にそれを見せる機会があって「面白いじゃないか」ということにまでなった。
もう、いっぱしの演劇青年気取りでね。「これが上演されたら、僕は外務省を辞めます」そんなことを本気で口にしてましたね。偉そうに…モンマルトルかなんかの屋根裏で貧乏劇作家でもいいと思ってたんだ。若い時ってそういうもんですよね。
それが『5秒前』というお芝居だったんです。