※宗谷と海氷上に降ろされた物資。 |
それで、茅さんを中心とする学術会議の中に南極推進本部ができましてね。文部省の大学学術局というのが中心になって動くんです。これに対して未だに大きな批判はないですけど。ただ、運輸省なんかが時々批判的なことを言うのはね。例えば、最初は海上保安庁が行ったわけです。「宗谷」は通算6回、南極に行ってる。
それがいつのまにか自衛隊に変わったのね。通信関係や飛行機を飛ばすとかいうことになると、やっぱり自衛隊の十八番でね。でも自衛隊の船はみんな軍艦ですからね。やっぱり自衛隊がでるのは良くないだろう…そういう批判はある。だけど、もう今は海上保安庁は南極とは関係ないの。
※タロ(左)とジロ(右)。 |
そしたら西堀さんと意見があって…「お前やれ」ってことになった。断わる理由はなかったからね。「よっしゃ、分かりました。」って、二つ返事で引き受けましたよ。後で西堀さんが言うんです。「あの時、菊池君…面白いこと言ったね」「何て言いましたっけ?」「犬ぞりが無かったら『南極』にならない」って。ボク、そんなこと言ったんだね(笑)。
でも「分かりました」って言ってはみたものの、やったことはないしね。いったい「犬ぞり」って何なんやろって。この時ほど英語の本を読んだことは無かったよ(笑)。紀伊国屋に行ってね、アメリカの本を取り寄せてもらう。これが高いんだよね。おまけにあの頃は1ヶ月は優にかかった。女房には「また本を買うの?」って睨まれるしね(笑)。
だって、日本に犬ぞりの本が無いんだもんね…しようがない。当時、梅棹忠夫というのが唯一、犬ぞりの論文を書いてた。京大の学生の頃に、犬ぞり旅行で樺太へ行ってるんだね。その記録が唯一、日本語で書かれた「犬ぞりで走った」記録。ま〜何にも書いてないけどね(笑)。
あと、ノルウェーだとかスウェーデンだとかにもあるんでしょうけど…そんなの読めないからね。それで英語の本を片っ端から漁って「犬ぞり」に関連する部分だけ、必死になって読んだ。そうして何となく分かってきたのね。それでボクなりの論説ができてくる。
そうすると、またいろいろ言う人が出て来てね。北大の山岳部とか日本山岳会の若い連中、同年輩の仲間たちがね。「菊池が、勝手なこと言ってるぞ」って(笑)。山岳部の大先輩なんか「お前、ちょっとこい」と呼び出してね。「どうも、南極に凝ってるみたいだが…俺は、お前が本物の登山家だと思ってた」って言うわけよ。本物の登山家が極地探検なんかするもんじゃない…そう戒めたかったんだろうね。
登山界を含めて、スポーツの世界っていうのは非常に視野が狭いんだね(笑)。いわゆるスポーツ・アルピニストからすれば極地探検は「登山」じゃないし、船で行って船で帰って来るだけじゃないか、とね。それでもボクは幅広くものを見たい性格だったから「いいんですよ一流でなくても」って言ったら、さらに怒られた(笑)。
※第2次隊の進入を阻んだ海氷の状況。 昭和基地近く、小型飛行機より空撮。 |
だけどオペレーションのやり方っていうのは一杯ありましてね。もうすでに何人かの連中がセスナで基地に入っているわけです。その連中が「我々は残るから皆帰っていいよ」なんて言ってくるしね。先に越冬してた仲間も「なんだったらもう1年…残ってもいいよ」と言ってるわけです。食料はあったんです。1回目の時に2年分の食料を入れてますからね。だから同じ11人はもつし、犬を使いながらそこでもういっぺん越冬を続けるって事は、物理的にはできたんです。
ただ、船の中には大きく3つのグループがありましてね。
これはまぁ昔からそうでね。昔の探検隊でも…船長だけが一生懸命で船員が反乱起したっていうのはよくあるハナシなんです。どちらかっていうと船員はへっぴり腰なの。できるだけリスクは避けて帰って来たいっていうのが平均値の考え方ね。その中で山屋だけが「俺一人でもいいから残りたい」そういう発言が出てくるわけです。
そんな時にじゃあ、最終結論を誰が下すかってことになるんだけど。隊長に一任ということになると「帰ろう」ということになる。隊長は学者グループだったからね(笑)。その当時で400tから500t近い機材があるわけですよ。最新のコンピューター測定装置がね。その機材を持ち込まないで我々だけ行っても仕方がない…と、こう言うわけです。そりゃそうでしょう(笑)。
だけど、お天気が非常に悪かったことは事実なんです。