生まれは大阪で、一時京都ですごしました。中学は瑞光中学。ですから大阪市のはずれですね。北野時代は、勉強もせず、とにかく本を読んでましたね。すこし左がかってましたかねぇ。図書館行って岩波の雑誌『世界』とか社会科学の本ばっかり読んでまして、あまりスポーツには馴染んでない、試験勉強にも馴染まなかったという感じですね。運動部にも入っていませんでしたし。だからといって文学青年ではなかったです。一時期飛行機と鉄道に凝ってましたね。だから、本業の勉強にはかなり手が抜けてしまってたんです。いつも授業サボって映画ばっかし見てました(笑)。
その後神戸大学へ行きました。ここへ行ったのは経営学に興味があったからです。これを勉強できるのは神戸大学しかないと思って。今までスポーツしていなかった反動で、これで受験勉強も終わりと云うことで運動でもしようかなと思って、見てて面白かったフィールドホッケーを4年間しました。
大学のゼミ旅行で…
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大学の先生の勧めで松下電器に勤めることになったんです。実際は武田薬品に魅力を感じていたんですけどね。これオフレコですよ(笑)。
でも、ゼミでもう一人いた武田薬品入社希望の子にじゃんけんで負けたから私が松下に行くことになった。でも、この時じゃんけんで負けてたからこそ今があるし、負けて良かったということを痛切に感じています。松下電器での仕事も楽しかったし、創業者松下幸之助の経営理念とか種々教わることもすごく多かった。更にはより大きな世界が開け、自分自身3の人間形成に役立ったと思う。
松下電器に入社して足掛け15年、関東営業所というところで家電のセールスとかセールス企画・セールス実務をやってました。これが一番長いんです。家電の景気が上向きな時でもあったんですが、昭和46年にはニクソンショックもありましたし。これは1ドル360円が変動相場制に変わった時で大変でした。それと昭和48年のオイルショック。この時は売り上げが激減しました。
宣伝事業部長時代… カール・ルイス氏と
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景気が少し回復して、まもなく今度は本社の経営企画室というところに行きました。この経営企画室に通算12年いたことになります。ここの部長もしましたし、 2回目は経営企画室長をやらせて頂いたんです。それから直近では宣伝をやったりもしましたが、これは短命で3年少々です。
最後にガンバ大阪に来る直前は、本社の資材センターで所長を務めてました。ですから私には定職がないんですよ(笑)。いろんな部署を経験させていただいた。
この他にも1年ずつ仕事が替わっていったのも幾つかありましてね。欧州本部に1年、海外企画室に1年、ビデオの海外営業に1年、ビデオ本部の海外企画室に1年…。もう、とにかく1年毎に替わったのが4回。そうかと思えば15年間ずっと一つの営業所にいたとか。こんな経歴です。
ガンバの社長職?
そりゃもう、短命なんじゃないですかね(笑)。