甲骨文字の《女》字は、手を前に組んでひざまづいている形です。その《女》を《子》という要素と組み合わせます。この二つを左右に平面的に並べると、《女》が《子》をかわいがるいうことから「好」という字になります。ところが《女》の下半身後部に《子》をひっくり返して置くと、これは頭を下にした子供が出てくる出産の光景で、「育」という字になるんです。「育」はもともと子供を産むことをいう漢字でした。
漢字では同じ要素を組み合わせながら、どこにどういう方向に配置するかによって意味の違いが出るわけです。これを私は漢字のベクトルと呼ぶんですが、このことを私はいま日本語で説明しました。しかしもし私が英語やドイツ語を話せるのなら、アメリカ人やドイツ人の学生に説明してもわかるわけですよね。
この字形を今から3300年前の古代中国のものだと考えるから、漢字の問題だと考えてしまうのですが、実はもっと広い情報メディアとして使えるんですよ。たとえば最近のパソコンには、画面に四角いアイコンというものがある。そのアイコンの一つに《W》と書いてあるものがあったり、《一》が書かれていたりします。これをクリックするとワープロソフトがジャーンと立ち上がる。しかしそれぞれのアイコンのデザインとソフトの機能とはなんの関係もない。《W》とか《一》と書いてあっても、それがいったい何をするソフトなのか、「ワード(Word)」とか「一太郎」というソフトの名前を知らない人にはさっぱりわからない。それを使っていない人にはまったくわからない。
しかし最初からこういうアイコンにしておけば、世界中だれにもわかります。これは先が3つに分かれた棒を手でもっている形で、甲骨文字での「筆」という漢字です。これがパソコン画面でアイコンになっていれば、誰だってこれをクリックしたらワープロが立ち上がって、文章が書けるということがわかるでしょう?
というような話を去年(1999年)の暮れに、パリの学会で発表しました。「甲骨文字発見100周年記念シンポジウム」というのがなんとパリで開かれ、現地の友人が声をかけてくれたのでノコノコ出かけてしゃべってきました。これ、フランス人には大受けでしたね(笑)。中国人の先生からは、西洋には毛筆がないから「筆」という字が西洋人にはわからない、との意見が出ましたが、筆がだめだったらボールペンにしておけばいいんです。要するに、古代の中国の象形文字というのはビジュアルに訴えて来るんですよね。国籍を越えて万人にコンパクトな形で共通の情報を与えるメディアなのです。
つまり漢字は、博覧会などでのインフォーメンションセンターとかトイレとかを表すマーク、あるいは高速道路を走っているとフォークとナイフが並んで描いてある。あぁもうすぐレストランがあるな、とわかる…あのピクトラム(pictogram)と同じなんです。
要するに、21世紀の情報化社会で一番有効なメディアは、実は最古の漢字である「甲骨文字」ではないだろうか(笑)…なんてことを、ここしばらくあちこちでしゃべったり書いたりしています。そんなわけで漢字の将来は明るいといえるでしょう。
今まで勉強してきて、一番楽しかったことですか?そうですね、自分がやっているのが「なんとか学」だといえないというところではないかと思います。縦割りの「なんとか学」におさまらない仕事は、ものごとを横断的に見ていかなければならないのでしんどいものですが、そのかわりすごく楽しい。これから新しい学問に従事していく人が、従来の縦割りの学問にこだわっていたらだめですよ。さいわい世界には自分で新しいシステムを作っていくことができる分野が、まだまだ未開拓な分野がたくさんあります。身近な例をあげれば、たとえば書物でページ順に数字をふる、ノンブルというのがどこでいつごろから始まったかというのはまだよくわからない。本の作り方についてなんかでも、まだよくわからないことが多いんですよ。こういう分野にどんどん若い人が入ってきてほしいですね。