第3話●
常安町
脇田 修
(62期・大阪大学名誉教授/文学博士)
ちなみに大阪では始めこそ第一番中学校といいましたが、あとは府立一中といった番号の付いた呼称を使いませんでした.京都・神戸・東京などでは番号が付いていました。そして東京では四中が進学率も高く良い学校といわれましたが、他地域ではどうしても一中が良いということになり、序列を意識させました。大阪では地域名を学校名にしたことによって、各地域に特色のある名門校ができているのは周知のことですが、それはひとつの見識でした。それはそれとして北野高校は大阪の第一番中学校の後身であり、大阪で最初の中学校という歴史をもっています。
さて常安町付近は、今は吹田に移転しましたが、近年まで大阪大学本部や医学部・歯学部があったところです。さてこの町名は淀屋の三代常安に因んだものです。淀屋は山城の淀または八幡の出身といわれますが、近世前期、日本一の豪商といわれ、肥料になる干鰯、材木の営業権を幕府に認められ、京橋に青物市場を開いたりしました。また大名貸なども破約からおこない、巨大な富を蓄積しました。辰五郎を通称としていますが、三郎右衛門広当(ひろまさ)の代に、将軍綱吉の幕府により欠所すなわち財産没収となりました。淀屋橋を架けたことは知られていますし、御堂筋から西へ入る淀屋小路が残っています。
さて常安町には分家で常安町家といわれた淀屋善右衛門家がありましたが、今も常安橋が残って、往時を偲ばせています。近世ではこの付近は広島・久留米・明石など各藩の蔵屋敷が並んでいました。大川筋で輪送の便も良かったからです。
近代には、大阪中学校がおかれたのでしたが、また大阪女学校のちの大手前高等女学校(大手前高等学校の前身)もありました。大阪大学も移転して、あとはまだ開発が終わっていませんが、新たな文教地区となることを願っています。