脇田 修
(62期・大阪大学名誉教授/文学博士)
さて北野高校は、明治6年(1873)難波御堂につくられた欧学校にはじまり、集成学校などの経過をへて、明治16年(1883)に創立された大阪府立大阪中学を起点としています。
この難波御堂は、浄土真宗大谷派本願寺(東本願寺)の大阪別院です。俗に南御堂といわれ、本派本願寺の北御堂とともに、大阪のメイン・ストリートである御堂筋を形成しています。よく知られていますが、本願寺八世蓮如が「生玉の庄内大坂」に坊舎を営んだのが、大阪の地名が記された最初で、天文元年(1522)本願寺が移ってきて、寺内町が発達します。ついで豊臣秀吉によって城下町大坂の建設がなされました。この時期、慶長3年、教如上人は大坂に大谷本願寺を造営しますが、その後、京都へ本願寺は移り、そのあとが難波御堂として残ったのでした。これが北野中学の最初の場所になります。
このように大坂は、戦国時代に一向宗の本山である本願寺から開けた土地で、これを大坂本願寺といいます。はじめ坊舎をつくったさい、建築素材になる石が出てきたので、仏の加護だとして石山と呼んだという話が残っていて、通称、石山本願寺といいますが、大坂本願寺が正式の呼称です。この石は、おそらく難波宮の石であったと考えています。この一向宗の勢力は強くて、大坂本願寺は織田信長を相手にして十年を越える戦闘をやりましたし、また大坂近郊には八尾・久宝寺・摂津富田・富田林・貝塚・今井など一向宗寺院の境内都市つまり寺内町として成立した都市が多いのです。
それから堂島に移りました。大川のなかの島が起こりでしょうが、堂島の名については諸説あります。四天王寺のお堂を造るための材木を置いた、薬師堂があった、また鼓の胴の恰好をしていたから胴島、堂島になったとか、さまざまいわれています。
ただ地名は古く、堂島の初見は室町時代にさかのぼります。阪急京都線は十三から南方・崇禅寺・淡路へとまいりますが、この崇禅寺駅の由来は、室町時代には栄えた寺院です。寛正2年(1462)寺領目録によりますと、大坂の北部一帯に領地を持っていまして、そこには堂島を含めて曽根崎・福島・十三・国分などの地名が出ています。
なお、私は曽根崎小学校の出身ですが、曽根崎も目録に出ていて、特におもしろいのは、そのなかに「埋田之内、角田」という肩書の付いた田地があることです。現在の梅田は、元は埋田といったが、感じが良くないので、植物の梅に変えたという伝承がありますが、それを裏付けていますし、阪急電鉄本社のある角田町の地名の初見です。