杉元仁美
酒ミュージアム(白鹿記念酒造博物館)学芸員
笹部氏は「さくら供養」の趣意書を大阪倶楽部に提出する。趣意書には花だけの桜ではなく、桜材として印刷の基盤となり、上り框、鼓の胴、彫刻の資材となって、いつも身近に桜がある。そんな桜木への感謝の心を供養したいこと等が述べられている。
早速、元近鉄の事業部長の米田伝司氏、元新聞記者の浅田柳一氏、当時大阪市の公園部長の田治六郎氏等の協力により桜の供養のための碑の建立の準備が始まる。建てることにはなったものの、建碑の場所は吉野山と心には決めていたが、あらゆる困難な問題があり、笹部氏は行き詰まれば“武田尾の桜山にすればいい”と肝を決めていたようである。
浅田氏は碑の石を探し(笠岡市北木島・皐石)、田治氏には設計を頼み、碑文には菅楯彦先生に頼みたかったようであるが、ほんの少しの違いで世を去られていたため笹部氏が困りながらも碑文を書いた。碑文は、
頌桜
花は春を呼び 人は花に酔ふ 桜の徳であらう 類ひ なき材質の故に 日本の文字と文化を伝へる母体とな つた版木に身を刊(けづ)つて来たのも桜である 器材として 鼓の胴があり 妙へなる韻(ひび)きに人の心を浄める 桜を たゞ春の粧(よそお)ひとのみ観て このも一つの桜の 功徳が世に知られてをらぬのを憾(うら)みとし 久しきに 亘つて我が民族の享(う)けた恵みに酬(むく)ひたいものと こゝにさゝやかな供養の碑(いしぶむ)を建てる
昭和四十年四月 笹 部 新 太 郎
といった笹部氏の嘆きでもあり、桜に寄せる主張が刻みこまれている。頌桜碑建立記念品の文鎮は、笹部家で使用していた鬼瓦の文様と同じであり、製造も奈良の名工・瓦宇さんに造ってもらったものである。現在も頌桜碑は吉野山桜展示園に現存する。
(碑の高さ 八尺(264cm)・幅 四尺(132cm)・厚さ 50cm・重さ 4t・敷石 4坪・置石大小3t〜1tの計4個)