小林一郎
(78期)
・・・中学、高等学校、そして大学と、私が籍をおいた学校への寄与もつい、仲間はずれしてまでも一切をふり捨ててがむしゃらに取り組んだ桜ではあったが、何もかも全く空しき努力であった。
私の通いつづけた武田尾の山の入り口に、ゴンズイの木が一本ある。大正期、初めてこの山を拓く時には、入り口近くはただ小ぎたなく雑木が生えていたばかりで、この辺一帯に伐ったり焼いたりして、もとからの木は何も残ってない筈なのに、ここにゴンズイの木が、それも一本、私が植えたほかの木に交じって生えている。広い山にここにだけ生えている一本である。ゴンズイの木というのは、さして大きくもならぬ木で、木材にも炭にもならず、見た眼にも、これぞというとりえのない木で、その名の由来も、どうしたって食えない同名ゴンズイという小ザカナの名を、この(とりえなし)を通わせてそのままこの木につけたとある。 雑木であっても、どこかによさのあるものは口やかましくいって残させておっても、残す筈の木を、ともすると伐り払ったり、掘り上げられたりすることのある中に、選りによってこんな木が残されて、しかもそれが山の入口にあるために、山への往復にいやでもくりかえして顔を合わさねばならぬ。それさえあるのに、何十年も通った山ながら、私の桜さくらも小さな実も結ばなかったと、そろそろ気がつきそめてから、初めてこの木の残されておるのを知った時には、人間のゴンズイにも当たる「ロクでなし」の私には、これはまた何たる皮肉だろうと苦笑のほかなかった。 無力の町人には、痩馬にすぎた重荷とは百も承知の上で、無鉄砲に桜に取っ組んでみたが、組織による者の生活のみが保障される当世では、桜どころか、私のその日その日の生存が危なかしくさえなってきた。先のしれている年になって、私は、自分で選んだナマの生活に食中りをしたといまになって気がついた。罐詰にしておいた方が安全ではあったのだが、それでも罐詰組に加わらなかったのを悔いとせぬといったら、負け惜しみだと笑われよう。せいぜいお笑い下されい。大にしては国際法、小にしては道路の取締規則にいたるまで、ろくすっぽ行われておらず、裁判でもてあまして、お定まりの調停へとなるのが、初手から判りきったコースで、諦めと泣き寝入とで幕になるうつろな文字の法律などに依りかかる行路を選ばなかったことを、むしろよかったと思う。行われもせぬ法律は、こわれたままの舗道を思い合わさせる。 それにつけても、この「ロクでなし」の子供に、望むにまかせての学校を卒えさせてくれた父は、いまも生きていたとしたら、みじめな今の私をどう思ったことであろう?「働きのないヤツだナ」というだろうか。早く母を喪った私がかわいそうだと、よく私に乳房をさぐらせていたと聞く、父のことだから「それでいい、それでいい、ただ戦争さえなかったら・・・などと愚痴だけはいうなよ」といってくれるような気がする。さて、学生時代に「どうせやるのなら日本一になれよ、サクラの神様になってくれよ、和田垣は待ってるぜ」とネジを捲いてもらった和田垣謙三先生はこれもお達者なら何といわれることだろうと、この頃になって時々思うことがあるが、もし私が先生に「私の桜はモノになってませんか」とおたずねするとしたら、いまどきの大学の先生方よりは、一回り大きくできているあの先生であってみれば、この〈日本版桜の園〉の主役は「対手が桜のことだから、それはいわぬが花じゃないか」くらいで、うまくイナされたことであろう。
自分で自分の晩年を意識してこれまでの人生を振り返り、まとめた文章としては非常に寂しいかぎりであるが、たしかに時代が悪かったと言えよう。この後、荘川桜移植、笹部桜発見、小説「櫻守」とそれのTVドラマ化などで世間的には脚光を浴びることになるのだが、新太郎の桜人生はやはりこの時点で終了したのではないだろうか。以降の少々華やかな年月は、それまでの長かった賽の河原の石積みのような努力に対する「桜の神様」からのちょっとした「ご褒美」に過ぎないように思えてならない。
さて、いつものようにお気に入りの大阪倶楽部で誰彼となく捉まえて桜の話をしていた新太郎のもとに政界の要職に有る高碕達之助から電話がかかってきた。