鍋島色絵花籠青海波文小皿
【なべしまいろえはなかごせいかいはもんこざら】
江戸時代後期 2枚
法量:口径12.2cm
高さ3.0cm
杉元仁美
酒ミュージアム(白鹿記念酒造博物館)学芸員
鍋島焼
江戸時代初期、磁器の焼成の普及とともに、佐賀鍋島藩の御用窯として、寛永5年(1628)岩谷川内窯を藩窯に指定したのがはじまりです。その後、寛文年間(1661〜73)に柿右衛門の赤絵の技術を導入するため、柿右衛門窯のあった南川原に窯を移し、延宝3年(1675)には大川内山に移転します。そこで鍋島焼は最盛期を迎えたと伝えられています。しかし、元禄6年(1693)頃から急に不出来の製品が多くなったことに対して、警告が藩庁から指令書「手頭」を何度も渡されます。こうして藩窯製品の精巧さを保つ努力がなされ、鍋島藩窯の最盛期は延宝3年〜元禄年間にかけてと考えられています。鍋島焼の作品には、青磁・染付がありますが、色絵磁器が特に優れ、<色鍋島>と呼ばれています。
<色鍋島>は皿類が多く、円形の木盃形で直径一尺、七寸、五寸、三寸とあり、七寸、五寸の皿は十客、二十客の揃いものとなっています。 絵付は鍋島独特の技法として墨はじきと呼ぶ染付技法が用いられています。型抜きの部分に墨を塗り、型をはずして全体を濃み、焼成すると墨の部分の染付が墨とともに落ち、細かな染付の線描が残るという技法です。高台は大きくて高く、櫛目文が描かれています。裏面に描かれている染付紋様は一般的には、七宝繋文を三方に表わしています。それ以外には花唐草文や花卉の折枝文を二方や三方に配したものなどもあります。
本品は例外的な四寸皿です。
中央に3つの籠を、前面の下には青海波文様を、そして全面に桜花を散らしています。裏面はやはり三方に七宝繋文様、高台側面は櫛目文が描かれています。