北野高校に遺された笹部桜も久野氏が寄贈したものである ※校舎改築にあたって保存の決まっている植哉のひとつ |
小林一郎
(78期)
以下は平成4年に大阪造幣局と東京池上本門寺へ笹部桜を寄贈した時にそれについて日本経済新聞に寄せた久野氏の文章であるが、氏の基本的な考えが良く分かる。
「……私が翁の事業を何とか継承しようと決意して桜研究を本格化したのは、翁の没後である。残された『理想の桜』を正式に学名『笹部桜』」として残すために親交のあった人々とはかり、昭和60年に園芸誌発表にこぎつけた。62年には兵庫県天然記念物の指定も受けた。
接木と実生から笹部桜を基盤にした山桜の美しさを普及させることは、全国の9割を占めるソメイヨシノに代わる桜の存在を広く伝えると同時に、花だけを見るという西欧的な鑑賞方法への批判であり、学名のついている桜以外には価値がない、といった風潮への異議申し立てでもあると私は考えている。 翁の考え方は分類学で品種を固定するのではなく、実生で新品種を作っていくことであった。桜は自家受粉せず、他品種との交配によって実ができる。当然実生で花が変わるのが運命ともいえる植物だからだ。
大阪の桜の名所、造幣局の通り抜けは14日から始まる。翁の生涯の努力の結晶ともいえる笹部桜は東と西で人々の目を楽しませてくれるわけである。『箱根越え』が実現したのは日蓮宗総本山貫主、田中日淳上人と評論家、薄井恭一氏のお力添えのたまものである。
後の世の 春を頼みて 植え置きし 人の心の 桜をぞ見る
これは明治時代、『布衣(ほい)の農相』と呼ばれた農政家、前田正名の歌である。翁の足跡をたどりながら、私はこの歌に託されたゆかしい心を今かみしめている。」(H4・4・4日経、同日付朝日にもこの項記事あり)
平成6年(1995)病床につき、秋に没す。享年72才。北野時代は全盛期のラグビー部員で一期下の弟(劉善夫氏55期)と共に「北中に劉兄弟あり」と全国的に名を馳せたラガーでもあった。丹精して育てた笹部桜の苗のうち、遺志によって約350本(他にも権現桜、荘川桜、薄墨桜など100本)が木次町に託された。残りは大部分が西宮市に、それから六稜同窓会(北野高校)、吉野町など所縁のところに分けられたのはこれまでに述べたとおり。もちろん京都東山にある久野家の菩提寺にも夫人の手によって笹部桜が植えられている。