笹部桜考(5)

    笹部新太郎氏のこと(2)
    (17期・1887-1978)

    小林一郎
    (78期)




      笹部新太郎の北野中学時代についてはあまり多くの話は残されていない。そのなかで1期上の劉咸一氏(16期・医師、一高~東大)の家族との交流が取り上げられる。劉氏の母堂は大変愛情豊かな素晴らしい女性で、我が子だけでなく近所に住む同じ中学に通う新太郎少年にも濃やかな心遣いで接し、幼くして母親を亡くした新太郎にとっては劉家に立寄ることが何よりも楽しみであり安らぎでもあったようだ。東京帝国大学に進学の後も、時期ごとの仕送りなどでも常に咸一氏一人分以上の量の食品などを送り、新太郎はじめ周りの学友達から慕われ感謝されていた。

      この劉家とのつながりは咸一氏の子息の代にまで及び、久野(劉)友博(54期)、劉善夫(55期・医師)の二人の六稜生との繋がりは91歳で岡本の地で没するまで続くことになった。このうち久野氏は笹部氏の影響を受けて桜研究家と呼ばれるようになり、笹部桜および笹部氏の考えを広める役割を果たすことになった(後述)。

      自伝によれば北野中学時代に新太郎は写真機の趣味を始めたとある。明治の30年代のことで、もちろん今のようなフィルム式ではなくてガラス乾板式の四角い大型のものである。高価で貴重な、とても中学生が趣味として持てるレベルの器械ではないのだが、桁外れの笹部家の財力が可能にした。『博物』の授業で勝手の判らない教師に代わって新太郎が写真機の説明をしたとある。「……その時分こんなものを持っている学生は収容数の多い私の通った中学でも、全校でわずかに三名を数うるのみであった……」とあるが、当時全校で三名も写真機を持っている方が驚きである。はたして校区に何軒の写真館があったのやら。当時の北野中学の生徒父兄の経済力が推し量られる。

      写真の趣味は高等学校、大学と続き、桜研究を始めてからは一番有効な手段となったが、明治42年の大阪の大火で、それまで撮り貯めていた3,000枚以上の原版を生家もろとも焼失した。どれほどの財力を以ってしても取り返しの効かない、辛いおそらくは初めての悲しみであったことと思われる。ちなみに長い生涯で一番楽しかったのは、荘川桜移植の成功(後述)や笹部桜の発見(後述)ではなくて、「旧制高校時代の三年間の寮生活だった」


    Last Update : Jul.23,1999