「五井持軒和歌遺稿」五井持軒撰、五井蘭洲手写。大阪府立中之島図書館蔵。 持軒の遺詠をその三男である蘭洲が整理・編集したもの。 |
岸田知子
(78期・高野山大学教授)
延保7年(1679)に出た大坂最初の案内誌『懐中難波雀』には「講尺師」として名が載っている。このことは、大坂において儒学者がまだ社会的に認められていなかったことを示している。持軒は、元禄期にかけての大坂の職業案内誌に一貫して記載されている唯一の学者であった。
持軒は師弟関係にこだわらず、門人を朋友と呼び、一応朱子学を標榜するも、性や理気といった議論は好まず、四書(『論語』、『孟子』、『大学』、『中庸』)を繰り返し講じていた。そこで、町の人は彼を四書屋加助と呼んでいたという。加助は持軒の通称。四書を屋号にするのが、いかにも商都大坂らしい。
持軒は儒学だけでなく、『日本書紀』に精通し、和歌も嗜んでいた。彼の子が後に懐徳堂の助教を務める五井蘭洲【ごい・らんしゅう】であるが、蘭洲は父から学んだ漢学と和学を発展させることになる。
さて、京都に生まれ、浅見絅斎【あさみ・けいさい】の門に学んだ三宅石庵【みやけ・せきあん】が、江戸、讃岐を経て、大坂で塾を開いたのは元禄13年(1700)であった。その門人の多くは富裕な町人で、彼らは新しい講舎を建て、石庵を迎え入れた。大坂にも儒学を学ぶ機運が高まってきたのである。多松堂と名付けられたこの学塾が懐徳堂の前身に当たる。