「伊藤東涯含翠堂講義図」『摂津名所図会』所載 大阪大学懐徳堂文庫蔵 |
岸田知子
(78期・高野山大学教授)
含翠堂は土橋友直【つちはし・ともなお】を中心とする有力者七家の出資と合議によって運営された。これは、このあとに登場する懐徳堂の運営方法に大きな影響を与えた。平野郷在住者以外の支援者の中に、懐徳堂を創設した五人の町人(五同志)のひとりである道明寺屋吉左衛門(富永芳春)がいることからも、含翠堂と懐徳堂に深いつながりのあることがわかるのである。
含翠堂はやがて同志による掛銀制から、より広い支持層を対象にした自由寄付銀制へと移り変わりながら、明治5年(1872)の学制公布まで活動を維持した。このことは、含翠堂が地域に密着していたこと、地域が学問を求め、また支える力を有していたことを示している。
ちなみに含翠堂の名は、もともと庭に老松があったため老松堂と呼ばれていたのを、宋の范質の詩に「灼灼たる園中の花、早(つと)に発して還(ま)た先に萎え、遅遅たる澗畔の松、鬱鬱として晩翠を含む」とあるに因んで、三宅石庵が命名したものである。
現在、含翠堂関係資料は大阪大学文学部国史学研究室に保存されている。