「大坂地図」(文久3年) 大阪大学文学部国史学科蔵 |
岸田知子
(78期・高野山大学教授)
そもそも朱子学は、日本では中世以後、鎌倉や京都の五山の禅僧に受け継がれてきた。江戸期に入り、林羅山【はやし・らざん】が幕藩体制維持の理念として説いたのを、幕府が採用したのであった。林家【りんけ】の家塾を、幕府の学問所(昌平黌)として改めて創建したのは元禄3年(1690)のことである。それにならって各藩でも、それぞれ藩校を設置し、朱子学による教育を行なうようになったが、これらはいずれも主として武士階級の子弟の教育のためのものであった。
その中にあって大坂という町は、江戸とも諸藩の城下町とも、あるいは京都とも異なる「天下の台所」、すなわち町人の活躍する経済都市として発展していた。その大坂の町人のあいだでも、寺小屋以上の教育を求める気運が生まれていった。
元禄時代も終わる頃、18世紀初頭には大坂の市中や近郊で漢学塾(儒学の学校)が開設されはじめた。それらの開設がいずれも町人自身の手によるものであり、学ぶ者もまた町人であることが、大坂の学問を特筆すべきものとしているのである。