『明治廿一年校舎新築の春、門の正面、講堂の屋根の妻、白壁の眞中に「中」を徽章化して金で浮かした考案は先生の發明と聞く、六稜章の前身のみならず、其後簇出の各徽章を先驅けたもので、其創造を永く稱せねばならぬ云々』
とある。此廿一年は廿二年の誤であるが、それはとにかくとして私共が明治廿四年四月に入學した時の第一印象は此本館正面の白堊に金色燦然とした六稜の徽章であって。此れを仰ぎ見た時の感激は五十年後の今日に至るも尚忘れ難い。
處でそれ程強い印象を與へた此徽章、在學五年間、常に帽章として頭に戴き卒業後も絶えず尊敬と愛執の念禁じ得ない此六稜が何誰によつて考案せられ、何頃から使用されたかについての確な記録を、不幸にして私はまだ見たことがない。
それで昭和八年の夏、朝日會館に於ける記念講演會の際なども、來會せられた谷田、安場、官浪その他の元老や先輩、それから幹事などの諸君にお訊ねしたが、一向確定的な答を得ず、此れは榮ある歴史をもつ我母校として甚遺憾であり、また此機會を過ごすと或は永久にそれを確め得なくなりはせぬかと危ぶまれたので、私はその後方々へ問合せた結果、まだ十分ではなかつたが、その大體を同年十一月五日の祝賀會席上でお話した。
然るにその反響と云ふのか、其後またいろいろの方面から報告を得、その中には異説も混じつてゐたので、更に再調査の必要が起こり、其ため又々諸先生や先輩諸氏へ少からず御迷惑をかけたのは洵に申わけもないことであつた。幸に母校を思ふ諸氏の熱意により大體に於て決定的な結果を得たが、ここにヘ示賜はつた諸君、野尻警爾、中村堯興、加藤亨、戸田孝作(以上は何れも故人となつた)岡久吉氏等、それから中風症で静養中のため令息呉樓氏を代理として小生方へ差向けられた廣田竹次郎先生、(先年逝去)遠路の處、御老體をわざわざ此件だけのために御來訪下された松原三五郎先生、遠く鹿兒島から三回四回と老筆細書、縷々として委曲をつくした長文の書簡を賜はつた林正治先生に對して衷心から御禮を申上る次第である。
さて前置きが少々長くなつたが、以上の調査を綜括すると大體次の通りである。
先づ我校の帽章は最初「中」の字であつたのが、後に「中」の中央で上下から寄せ、蝶に似た形の中の字を用ひるやうになつた。但その期間はあまり長くはなく、確ではないが明治十九年か廿年以後の一二年位の間で、林先生の説によると矢部校長の考案ではなかつたかといふのであるが、無論此れは單なる推測に過ぎない。
此蝶型中字は江戸堀の假校舎時代のもので、明治二十二年四月に堂島濱通玉江橋北詰(今の阪大病院の西半分)舊中津藩邸跡の新築校舎へ移轉した時から、始めて今の六稜が用ひられ、新築校舎第一回入學の中村堯興君などが最初に此帽章を戴いたのである。
それで同年八月六日から開かれた關西ヘ育聯合大會には、中國や四國邊からも續々と關係者が集つて來たが、當時五百人を容れるやうな會場は、市内で我新校舎が唯一であつたから、早速此處で催されることになつた。
後年我校で圖畫をヘへられた松原三五郎先生は、その頃まだ岡山に居られたが、やはり此會のために來阪せられ、矢部校長より新徽章を示されたので、他の會員とゝもにその意匠の妙を賞讃したと、此れは同先生の直話である。
そこでいよいよ改章の經路とその考案者の問題となる。
元來明治二十一二年頃の中學校と云へば中々權威のあつたものだつたから、恰度一時よく角帽や贋大學の徽章が流行つたやうに、「中」字が模倣せられ、それを夜店などで賣る者が出來た。
偶ある生徒がそれを見つけて、あれでは甚校威を傷けるから何とか取締まる途はないかと訴へて來たので、如何にも尤と林先生は早速京町堀十六の夜店へ出かけてその事實を確められたものゝ、別に其發賣を禁止する權能もないから、此際我校の帽章を他の形に改めるのが一番良策であると氣つき、すぐさま其考案に取りかゝられた。
當時は兵式ヘ育の熱が漸次熾になつてきた際であつたから、それにもともと軍人であつた林先生は、陸軍の星章に因んだ形にして見やうと種々工夫せられたが、どうも滿足出來る妙案も浮かばなかつたので、同僚の森田専一先生に相談した處、流石に森田先生で、一夜のうちにあの意匠が出来上つたから、早速其旨を矢部校長へ申出て認可を得たのであつた。
此間の消息は林先生の書簡を見ると極めてよく判るから、今左に其一節を抄録する。
『同兄(註、森田先生)一夜にして*2の如きものを描き小生に示され候、流石は學校の知惠袋と云はるゝ兄よと感嘆措かざる事に御座候へ共、ふと氣附き候て、此形の中に試に四個(註、後便ハガキにて中央少々離れ居る二個と訂正せらる)の孔を入候處、正しく中學に相見え候に付同兄に謀りしに、同兄も大いに賛成せられ候間、之と決定して校長矢部先生に、從來の帽章は夜店にまで安賣りせらるゝを以て此型のものに改めたし云々と申出候處、同先生も直ちに之を許容せられ候事に御座候
今日ならばかくの如き重大問題は全職員の合意に依つて決すべきものと存候へ共當時はそれにて相濟み、殊に密接關係ある廣田兄(註、竹次郎先生)にも告げずして校長の許容を得て後その旨申告せし次第なりしと記憶致居候云々』
さて斯うして出來上つた新帽章の製造を内本町(二丁目位で北側の家の由)の某店へ命じ、此意匠を他に用ひぬやうと特約して一切を任せた處、流石は商人の淺間しさで、一兩年後それを滋賀縣膳所中學校へ賣つたことがわかり、我校から嚴談したといふ話もある。
六稜の考案者は右に述べた通り森田先生であつたことは確實で『是は正眞正銘の事實にして些の疑點無之事に御座候』と林先生も斷言せられ、中村堯興君は明治卅二−五年我校へ奉職、森田先生と共勤して、同先生の口より屡々此事を聞いたと確答したから無論眞實と思はねばならぬが、他に少々異説のあつたことを附記しておく。
異説といふのは(一)生徒某の發意、(二)書記兼獨逸語の先生であつた小寺直好氏が考案したとの説であるが、先づ第一の説は、模倣の帽章を夜店で賣つてゐたことを報告した話から出たものと見るべきである。
また小寺氏は明治廿八九年頃(?)大阪市の募集に應じて澪標の市章を考案し、賞金を貰つた人であるが、或は此ことが六稜の件と混同して誤傳されたのではあるまいか。とにかく同氏は帽章決定後の明治廿三年から同卅一年まで在職せられたのであるから、此問題とは全く關係がないのは明白だ。
数年後に六稜の中に數字などを入れた種々のものが出來たが、其起源は我校であつて、右に述べたやうな由來であることを、我校の一同はよく記憶してゐて貰ひたい。
乃木将軍が學習院の院長であつた頃、常に院生に對して家紋の尊重すべきを力説されたと聞いてゐる。我等も我母校の徽章六稜を心から敬愛し、其光輝を永久に完からしめるやう努めねばならぬと思ふ。猶また此機會に際し森田、林兩先生の創成時に於ける御苦心に對して表彰の法が講ぜられんことを切望する次第である。