大阪学講座・六稜の星のしるし

    六稜の校章の誕生


      『創立六十周年』に高安六郎(9期)が「六稜の由来」と題する文章を寄せている。
      本校の校章の制定されるまでの経過を、多くの元教員や卒業生からの聞き書きをもとに考証したものである。

      これ以上の調査は現在ではほとんど不可能であるから、その要旨を紹介しておこう。

      1. 最初の(年月は不明)帽章は「中」の字であった。
      1. 1886(明治19)または87年から1、2年間、江戸堀の仮校舎時代は蝶型の図1が使われた。

      【図1】
      1. それが夜店で売られているのを一生徒が見つけて「校威を傷つける」と訴えて来た。
        教員の林正治が京町堀の夜店で確認し、帽章を他の形に変えるのが良いと考えた。
        林は兵式体操の担当者であり、陸軍の星章因んだ形を種々工夫したがうまく行かず、数学の森田専一に相談した。
      1. 森田が一夜にして図2の形を作り林に見せたが、林がこの形の中へ2個の孔を入れてみたら正しく「中」字に見えた。森田も賛成し、校長も許可して決まった。

      【図2】

      こうして新校舎の壁と生徒の額に六稜の星が輝くことになる。


    引用●『北野百二十年』p.57 (1993)より