【連載】大阪の橋
第26回●淀川大橋(2)
野里渡し
松村 博
(74期・大阪市都市工学情報センター理事長)
現在の国道2号に近い道は古くは梅田街道と呼ばれ、大坂から尼崎へ至る近道として西国往来の人々や尼崎の魚商人、西宮や兵庫の飛脚や商人など、緊急を要する人達の利用が多かったようです。新淀川が開削される以前の中津川は大きく蛇行し、塚本村(現在の淀川区塚本・西淀川区柏里付近)はその左岸にありました。そして右岸の野里村とは川で隔てられていました。この両村を結んで野里渡しが設けられていたことが『摂陽群談』に見えますので、元禄の頃にはすでに渡しが通うようになっていたと考えられます。
このルートは近世に近い頃に開かれたと思われます。現在の西淀川区や此花区には島のつく地名が多いことからもわかりますように、このあたりは淀川河口部のデルタ地帯で、古くは八十島という呼び方がぴったりする所でした。したがって古代から中世にかけては中国街道から下流部には安定した街道は作られませんでした。江戸時代になって大坂の西部地域や尼崎城下の町の発展が進み、それを短距離で結ぶ道がしだいに利用されるようになっていきました。そしてそこには常時渡しが通うようになりました。
Last Update: Jun.23,1999